きのうは、あっさりと見えながら、じつはしっかりコクがある鶏大根。
自炊は、「つづけること」が一番むずかしいと思うんですよね。
自炊は、「つづけること」が、一番むずかしいのではないかと思う。
何しろ、「張り合い」がないのである。
家族がいれば、食事を「つくらないといけない」という必要があり、食べさせておいしそうにしていれば、それが励みにもなるだろう。
主婦などの場合なら、それが料理をつづける原動力になっているのではないかと思う。
ところが一人暮らしには、そのような必要も、励みもないわけだから、料理をつづける原動力をどこか別のところに求めないといけない。
「節約」も、一つの原動力にはなるけれど、よっぽど節約が好きな人は別として、ぼくのような「金はあるだけ使う」者には、すぐに「そんなことはどうでもいい」となりやすい。
ぼく自身の経験からいえば、自炊の最大の原動力となるものは、
「料理を『必要』としてではなく、『楽しみ』と捉えること」
だ。
必要があってすることは、一種の「仕事」であるのに対し、楽しみでやるものは、『遊び』に近い。
遊びには、外的な原動力は必要ない。
自分自身に「やりたい」気持ちさえあれば、自然にやってしまうものである。
だから、自分の「やりたい」気持ちを削ぐものを、まずは徹底的に排除するのが、自炊をやるにはおすすめなのだ。
「効率」
は、やりたい気持ちが削がれるものの中でもかなり大きいものであり、効率化を目指すもの、たとえば、
電子レンジ、炊飯器、化学調味料、簡単レシピ
などなどを、まずは使わないようにすることが、一見遠回りには見えるけれども、けっきょく自炊が続くことにつながるのではないかと思う。
きのうもぼくは、大した料理を作ったわけでもないのだが、作り始めてから食べるまで、2時間半もかかってしまった。
さすがに「時間のかけ過ぎだ」と、忸怩たる思いもないではないが、食べれば大変おいしいから、
「べつに、悪くはない」
と、思えるのだ。
ただし、自分のことを振り返れば、ぼくが自炊を、ここまで続けてこれているのは、
「料理写真をブログで公開している」
ことも、大きい気がする。
やはり励みが、まったく何もないのでは寂しいわけで、写真でも、見てほめてもらえたりなどしてもらえるだけで、けっこう嬉しいわけである。
ぼくの場合、献立を考えるのでも、まずはもちろん、「自分が何を食べたいか」が一番なのだが、
「その写真をどう見てもらえるか」
も、じつはけっこう考える。
やはり人に見てもらうからには、何かの「主張」を込めたいわけで、ぼくにとっては、そのように考えることが、自炊をつづける格好の原動力になっている。
それでまあ、ほかの自炊をする人たちにも、そういう原動力の一助になればと、フェイスブックで「自炊隊」という、料理写真を投稿するグループをつくっているのだ。
自炊隊には、現在400人ほどのメンバーが登録し、活発に投稿・コメントがされていて、じつに楽しい。
ところでこの「自炊の料理写真」、意外に奥が深いものだと思うのだ。
まず「料理写真」自体が、単に「料理の視覚上での再現」とだけは言えないものがある。
料理は、そのままだと、食べてしまえばなくなるものだ。
だから料理が、「文化」として考えた場合、例外なくすべての人が関わる、「最大」ともいえる規模と、内容の豊かさをもっているにもかかわらず、たとえば他の、芸術や音楽、科学、経済などなどのような広がりに欠けるところがあるだろう。
料理は本来、「個人的な体験」としてしか成立しない。
作ったり、食べたりしてみなければ、本当のところは分からないわけであり、その内容を他人と共有することが、むずかしいからなのだと思う。
しかし料理写真は、文字と同様、ネット上ではいくらでも流通させられる。
それが「自分がつくる」という体験と重ねて語られるとき、料理はこれまでにはない、広がりをもち得るのではないかとも、思うのだ。
さらに「一人暮らしの料理写真」は、料理写真のなかでも「特別」ではないかと思う。
一人暮らしのつくる料理は、他人は決して食べられない。写真として公開されてはじめて、世の中に存在するものになる。
その「作品」としての価値は、写真の中にのみ、存在するわけである。
一人暮らしの料理写真は、ネットが発達してはじめて、流通するようになったものだろう。
ぼくはここに、
「これまでにはなかった新しい世界」
が、あるように思うのだ。
それが「どう新しいか」は、まだうまく言えないのだが、一人暮らしが、自分のためだけにつくる料理が、「とても興味深い」のはまちがいない。
必要も打算もなく、自分自身をまっすぐに表現した、「芸術」といえるものに近いのではないかとすら、思ったりするのである。
まあ、それはともかく、なので、一人暮らしの自炊者は、ブログでもフェイスブックでもツイッターでも何でもいいから、料理写真を撮影し、それを公開するのはおすすめだ。
ちなみに自炊隊に自炊写真を投稿すると、もれなくぼくの「ほめ言葉」がコメントされることになっている。
さてきのうの晩めしは、おとといガッツリとした激辛マーボーを食べたから、ガッツリとしていない、軽いものが食べたくなった。
そこで、鶏大根。
手羽元と大根を、うす味のだしでコトコト煮込んだ。
写真では黄色くなってしまったのだが、しょうゆをほんの少しにし、
「白くさっぱりと見えるのだが、味はきっちりコクがある」
よう、仕上げることにする。
まずは昆布と削りぶしのだしを取る。
水4カップに10センチくらいのだし昆布をいれ、10~20分、煮立てないようゆっくり煮出して、そのあと一つかみの削りぶしを、やはり煮立てないよう5分ほど煮出し、削りぶしは絞ってとり出す。
だしを取りながら、大根を下ゆでする。
皮もいっしょに乱切りにし、弱めの中火で、串がスッと刺さるまで。
だしが取れたら、
- 酒 大さじ3
- みりん 大さじ3
- 淡口しょうゆ 大さじ1
- 塩 小さじ1くらい(味をみながら)
で味をつけ、手羽元と下ゆでした大根を、弱火で煮る。
30分くらい煮たらうどんをいれ、うどんがほぐれたら火を止めて、しばらくおいて味をしみさせる。
三つ葉をたっぷりかけて食べる。
言わずと知れた、王道の味。
あとは、アサリの赤だし。
30分~1時間、塩水にひたして砂抜きしたアサリを、両手でガシガシ、こすり合わせながらよく洗い、アサリが200グラムなら、
- 水 2カップ
- 酒 大さじ2
にいれて中火にかけ、アクを取りながら殻がひらくのを待って、火を止めて、赤だしみそ(八丁みそ)を溶きいれる。
もやしと小松菜のじゃこポン。
もやしと小松菜はサッとゆで、水に取ってよくしぼり、ちりめんじゃこと竹輪とあわせて味ポン酢で和える。
それに、自家製梅干し。
酒は、熱燗。
自炊の最大の楽しみは、もちろん、やはり「食べること」。
自分好みに作れるから、下手な飲食店で食べるよりも、よっぽどうまい。
「ほんとは彼女が作ったものも食べたいんでしょ。」
そうなんだよな。
◎関連記事
ブリ大根にかますご、菜の花 ・・・春の物が出はじめたのである