きのうは大宮で飲むことにした。
このところ、飲みに出るのは週に一ぺん。年をとり、酒が弱くなったせいか、つい深酒をしてしまいがちな外飲みは、飲んだ翌日はもちろんのこと、さらにその次の日まで棒に振ることになりかねず、週に一ぺん以上だと生活に支障をきたすのだ。
そうなると、行く店には悩むことになる。
飲み屋にはそれぞれに義理があるから、週に一ぺんの外飲みでその義理を果たすのは、そう簡単ではないのである。
長く通っている飲み屋は、やはり顔を出す必要がある。
ただ商売上だけの話ではない。店主はこちらの人生を知っていてくれるから、あまり顔を見せないと心配させることにもなる。
このところ何回か、立ち寄ろうと心づもりしていた「ほっこりBar Kaju’」へ、けっきょく行けずに終わっていた。
Kaju’は、ぼくにとっては「基本の店」だ。京都へ来ていちばん最初に通うようになり、もう5年ちかくのあいだ、ぼくとおない年のマスターにはあれこれ相談に乗ってもらってもいるのである。
何をおいても、この店だけには不義理をするわけにはいかない。
そこできのうは、Kaju’に途中で立ち寄るのでなく、はじめに行くことにした。
Kaju’は、厚い木のドアで閉ざされている。
はじめての人にとっては、このドアを開けるには勇気がいるだろう。
でもそういう、一見敷居の高そうな店ほど、中に入るとあたたかい雰囲気なのは、ぼくが経験でおもうことだ。
マスターがここで店をひらいた10年前、今でこそたくさんの若い人たちが闊歩する大宮は、まだ「寂れた繁華街」だったそうだ。
戦前は京都繁華街の中心だったのが、戦後になり、阪急電車が河原町まで伸びたのを境として中心をもっていかれ、古い、昔ながらの居酒屋ばかりが軒を並べていたとのこと。
そういう街の、しかも「ドヤ街」とも呼べそうな、昭和の薫りがとくに色濃い一角「寛遊園」の奥まった場所に、「女性一人でも入れる店」をつくろうとおもうのは、かなりの覚悟がいることにちがいない。
一見の飛び込みは、まず期待できないところである。
しかしそういう場所で、厚い木のドアで閉ざされた店をやるのは、
「店主に自信がある」
ことを意味している。
一見の飛び込みにたよらずにお客を増やす方法を、店主が知っているのである。
まずはもちろん、「常連さん」がくり返し通ってくれなければいけないだろう。そのためには、店につよい魅力と居心地のよさが必要だ。
しかし常連さんだけでは、商売が成り立つのはむずかしい。
新しい人も気軽に入ってこられるような、風通しのよさも必要だろう。
だから「ちょっと辺鄙な場所の、目立たないところに店がある」ことそのものが、その店が「良店」であることを示しているのだ。
ぼくはこれまでの経験で、それが外れたことはほとんどない。
それで京都へ引っ越してきてKaju’をみつけ、迷うことなくドアを開けた。
そうしたら予想に違わず、何とも居心地のいい店で、それから5年、通い続けているわけである。
Kaju’はバーだから「2軒目」として利用する人が多いけれど、じつは食事メニューも充実していて、1軒目としても十分いける。
まずはキムチ。
これはマスターのお手製で、ニンニクは控えめでありながらきちんとしたコクがあり、さらに果物があれこれ入っているらしい、「さわやか」なのが特徴だ。
蒸し豚。
マスターがお気に入りの韓国料理屋で仕入れるもので、サッパリとしながらみずみずしい。
さらにきのうは、ここでガッツリ食事もすることにした。
豚汁と、じゃこめし。これがまたうまかった。
豚汁は、「さすが京都」とおもったのだが、みその量がおどろくほど少ない。
しかしそれでいて十分な塩気とコクがある。
じゃこめしは、ちりめんじゃこと青じそ、ゴマが入るところはセオリー通り。
そこにさらに、ゴマ油が少したらしてある。
これが濃厚なコクと風味をつけている。
マスターや顔見知りのお客さんともあれこれ話しながらビールを飲み、きのうもKaju’で、居心地のよい時をすごした。
もし大宮へはじめて来て、入る店を一つ選ぶとするならば、ぼくはKaju’がおすすめだ。
店のインテリアも「昔のジャズバー」のようで洒落ていて、マスターの仕切り方も、強すぎず弱すぎず、クセがない。
女性一人でも、まわりのお客さんに変に話しかけられすぎることもなく、落ち着いた、のんびりとした時間をすごすことができるとおもう。
月曜定休(ただし年内は大晦日までは休みなし、新年は2日から営業)。
19時ごろ~翌2時ごろまで。
腹もふくれ、酔いもいい加減でまわってきたから、Kaju’をでた。
むかった先は、Kaju’から30秒のところにある、たこ焼「壺味」。
ここはKaju’とは雰囲気は、見かけ上はまったく逆、酔ってボルテージの上がった常連さんが、たがいに熱く語りあうのだが、不思議とのんびりとした時間がながれ、ゆっくりと落ち着けるのはKaju’とおなじだ。
大将をはじめお店の人やお客さんに、「押し付けがましさ」がないのである。
話したければ、話し相手はいくらでもいる。しかし一人でゆっくり飲みたければ、それでもちゃんと居場所がある。
おそらくこの「絶妙」ともいえる加減は、大宮が長い時間をかけ、培ってきたものなのだろう。
大宮のお客さんが「品がいい」とは、京都の飲み屋にくわしい人から聞くことだ。実際変にからまれたり、ケンカを売られたりなどのことは、ぼくもほとんど経験がない。
60を超えた、大宮で生まれ育った昔からの常連さんも、若い人と分けへだてなく話をする。
やはり大宮は、枯れたとはいえ、いまだに京都繁華街の中心であり続けているのだろう。
昔ながらの「きれいに飲む」伝統が、常連さんの一人ひとりに、息づいているようにおもうのだ。
壺味では生ビールを2杯のみ、きのうは壺味にいたマチコちゃんたちが流れた「スピナーズ」がずいぶんと盛り上がっていそうだったが、ぼくはそのまま家に帰った。
もう食事も酒も、目一杯だったからだ。
ぼくも、もう50を過ぎた。
きのうのように、多少控えめに飲むことを会得できれば、大宮へも、もう少したくさん飲みに出ることができるだろう。
「どうせまたすぐ飲み過ぎるんでしょ。」
そうだよな。
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