昨日は鶏とゴボウのみそ煮込みを作った。
どろりとしたみその煮汁は、焼き麩に吸わせるのである。
ぼくは京都へ来てから3年半が過ぎ、京都がますます好きになっている。
ぼくが好きだとおもうのは、京都の人の「奥ゆかしさ」である。
京都へ来てまず印象に残ったのは、「エロい格好」をしている若い女性をまったく見ないことだった。
これが東京などなら全然ちがう。
夏になると、「ここはビーチですか」と聞きたくなるような、ほとんど裸のような若い女性が、新宿などの街中を闊歩している。
京都にはそのような女性は、「一人もいない」といっていい。
しかし考えてみれば、これは不思議なことである。
「京都の女性」といっても、若い人は学生も多いから、街で見かける女性のかなりが府外から来ているはずだ。
府外から来ている女性は、京都のスタンダードとは違う服装になってもよさそうなのに、そうはならない。
京都に何か、府外の女性にまでスタンダードを知らせる、「圧力」とでもいえるものが働いていることになる。
ぼく自身も、京都へ来て初めのころは、どのように振る舞っていいのかなかなかわからなかった。
一番むずかしかったのは、飲み屋のカウンターでの振る舞い方だった。
東京の飲み屋なら、バーテンなりマスターなりが仕切ってくれるから、それに従っていれば、ほかのお客さんとも自然に話せるようになる。
ところが京都の飲み屋では、その仕切りが非常によわく、お客さんどうしが自由に話すようになっているから、こちらは話しすぎたり、逆に話せず黙ってしまったり、ついしてしまうわけである。
しかしそのうち、何度か飲み屋へ通ううち、お客さんたちがどのようにしているのかがわかってきた。
ぼくの理解をいえば、「人との距離を測り、場の空気を読んでいる」のである。
実際京都の人から、「距離」や「空気」という言葉を聞くことは、多いとおもう。
その距離や空気と自分の気持をすり合わせ、言葉を発するわけである。
それを如実に感じたのが、ぼくがちょうど付き合いはじめたばかりの前の彼女と、なじみのバーへ連れ立って、初めていっしょに行ったときのことだった。
前の彼女とはそのバーで出会ったから、常連のお客さんはぼくと前の彼女がどのような仲になっているのか、興味があったはずである。
しかしすぐには聞いてこないのだ。
べつに何事もないかのように、素知らぬ顔で飲んでいる。
ぼくはこれが、京都以外の場所であったら、すぐさま常連さんに取りかこまれ、あれこれ尋問されたのではないかとおもう。
他人の好いた惚れたの話は、飲み屋の話題の華である。
実際ぼくは、前の彼女とのことをブログに書いたら、そのとたんに名古屋の友だち数名が電話してきて、彼女とのことを根掘り葉掘り聞かれているし、広島からも、前の彼女をひと目見ようと、友だちが京都を訪ねてきている。
でも京都の人は、「男女の仲を、いかにも興味があるように振る舞うのは、はしたない」と思っているのではないかとおもう。
そのあと特に仲がいい常連さんのカップルに呼ばれて、ぼくと前の彼女は4人でテーブルにすわったのだが、それでもその常連さんは、詳しい話を聞いてこない。
あれやこれやと、関係のない話をするのである。
ぼくはその様子を見て、「この人たちは、ぼくたちとの距離を慎重に測っている」と強く感じた。
したいことがあったとして、それにすぐに飛び付くのではなく、京都の人は、周囲をうろうろ回りながら機が熟すのを待つのである。
しかしもちろん、京都の人も、興味がないわけではない。
ぼくはそれから数日後、一人でそのバーへ行ったとき、常連さんに取りかこまれ、あらためて尋問を受けたのである。
このような京都の人たちの振る舞いかたを見ながら、こちらも徐々に、どのように振る舞ったらいいかがわかってくる。
振る舞いかたが京都の流儀にそぐっていると、京都の人たちは「受け入れる」姿勢を見せる。
それによって、こちらは「あ、これで合っていたんだ」とわかることになり、そうしながら一歩一歩、京都の流儀を学んでいく。
おそらく府外から京都に来た若い女性も、そのようなプロセスを経て、服装を修正していくのではないかと、ぼくは想像するのである。
そうして京都の流儀が身についてくるようになると、京都の人を「愛おしく」感じるようになってくる。
言いたいことをすぐには言わず、やりたいことをすぐにはしない京都の人が、「奥ゆかしい」と感じるようになるのである。
前の彼女は東京の人で、まだ京都の女性と恋愛の経験がないぼくは、ちゃんとしたことはわからないが、京都の人は、好きな人がいたとしても、おそらくなかなか「好き」とは言わないのではないか。
「告白」をまず最初にするのが当たり前の昨今で、京都の人は、相手との距離を慎重にはかり、最後にようやく機が熟したとき、「好きだ」と言うのではないかという気がするのである。
京都が千年以上、日本の都だったことを考えると、この京都の流儀は、伝統的な日本の流儀を示しているといえるだろう。
地域によるちがいはもちろんあるにせよ、日本人は、人との距離を測り、空気を読みながら、生活してきたはずである。
でも「距離」や「空気」は、現代の日本では、あまりプラスに受け取られていないところがあるのではないか。
「まだ距離を感じる」「空気に支配されてものが言えない」など、どちらかといえばマイナスの、「愛」や「自由」を阻害するものと受け取られているところがあるような気がする。
ぼくも今まで、他人との距離はできる限り「ない」ほうがよく、空気に左右されずに自分の意見が言えるほうがいいとおもっていた。
でも京都で知った、この距離と空気を尊ぶやり方も、「なかなかいいな」とおもうようになっているのである。
さてここまで来て、ようやく料理の話になるのだが、ぼくはこの京都の人の奥ゆかしいやり方を、料理の世界で象徴するものがあるとおもう。
それが「焼き麩」である。
料理の核は、「煮汁」である。
この煮汁を、「ソース」などの形で単独にとり出さず、何かに「しみ込ませる」ことによって味わうのは、日本料理の特徴なのだとぼくはおもう。
本当は一番味わいたい煮汁を正面には出さないことが、日本人の「奥ゆかしさ」を示すとおもうというのは、前に詳しく書いたから、ここでは繰り返さないけれど、そのため日本の料理には、しみ込ませる具材がたくさんある。
「厚揚げ」などは、味がしみ込みやすいよう、ただでさえ味がしみやすい豆腐を、さらに揚げているわけだ。
しかし厚揚げなど多くの具材は、粘度がひくい、しゃばっとした煮汁を吸込むことはできるけれど、粘度が高い、どろりとした煮汁を吸込むことはできない。
そこでどろりとした煮汁をしみ込ませるために登場するのが、焼き麩である。
焼き麩は京都で「すきやき」や「酢みそ和え」などに使われる。
吸込む力がとても強く、どろりとした汁でもたっぷり吸ってくれるのだ。
しかも焼き麩がすごいのは、煮汁を吸込ませる以外には使われることがないことだ。
厚揚げなどなら、煮て使われるだけでなく、焼いてそのものの味を楽しむこともされるわけだが、焼き麩はそれ自体の味はない。
単独で食べられることがないのである。
そういう意味でこの焼き麩は、日本料理の「しみ込ませる文化」を象徴しているようにおもうのだ。
ぼくが焼き麩の使い方を知ったのは、よく行く小料理屋「酒房京子」である。
京子さんは「丁字麩がおいしい」と教えてくれたから、ぼくもそれを使っている。
昨日は鶏肉をみそで煮込むことにしたのだが、ここに焼き麩を入れることにした。
焼き麩がみそのこってりとした煮汁を、うまく吸込んでくれるのである。
というわけで、「鶏とゴボウのみそ煮込み」だが、ひと口大に切って焼いた鶏もも肉を、ゴボウ、焼き麩といっしょにみそで煮込むという話である。
鶏肉は、塩や甘辛いしょうゆで味をつけるのが定番だが、みそ味も非常に合う。
煮込むばあいに使うのは、八丁味噌がおすすめだ。
ふつうの麹みそとはちがい、煮込んでも味が落ちない。
煮汁はあらかじめ合わせておく。
250グラムの鶏肉と2分の1本のゴボウにたいし、みそと砂糖、みりんと酒をそれぞれ大さじ2、おろしたショウガ小さじ1、水2分の1カップ。
ゴボウはナイロンたわしでよく洗い、太めのささがきにして水にさらす。
焼き麩は水にひたしてよく絞り、丁字麩なら大きいので半分に切る。
まずフライパンを中火にかけ、ひと口大に切った鶏もも肉を焼く。
鶏肉は、くれぐれも焼き過ぎないのがポイントである。
鶏肉が焼けたらいったん皿にとり出しておき、合わせた煮汁とゴボウをいれる。
中火で5~6分、ゴボウが適度にやわらかくなり、煮汁が適度に煮詰まるまで煮る。
「適度」はなんとも曖昧だが、実際にやってみればわかるのである。
ゴボウがやわらかくなったら、鶏肉をもどし、焼き麩をいれる。
さらに2~3分煮て、焼き麩が汁を吸込んだら火を止める。
皿に盛り、卵の黄身を上にのせ、青ねぎと一味をふる。
「八丁味噌には一味が合う」というのがぼくの考えである。
鶏肉は、ホクホクとやわらかい。
ゴボウはいい歯ごたえがある。
そして焼き麩は、煮汁をたっぷりと吸込んでくれているという話である。
あとは青のりの吸物。
一番だしに塩とうすくち醤油で吸物の味をつけ、青のりを温めて、三つ葉をちらしてユズの皮を浮かべる。
青のりは、春に買って冷凍したのを、さすがにもう食べないといけなかったのである。
カブの塩もみ。
うすく切ったカブの実、ざく切りにしたカブの葉を一つまみの塩で揉み、30分ほどおいて水で洗い、カブの実は水気をふき取り、カブの葉はよくしぼって、ポン酢と一味をかける。
カブの皮と茎のじゃこ炒め。
カブの皮と茎を細く切り、ゴマ油と輪切り唐辛子で炒め、酒とうすくち醤油を入れて汁気がなくなるまで煮る。
だし殻昆布とかつお節の佃煮。
細く切っただし殻昆布とかつお節を酒と砂糖、みりん、醤油で汁気がなくなるまで煮て、ゴマをふる。
いつもはだし殻とカブの余り物はいっしょに炒めてしまうのだが、昨日はカブだけ先にじゃこ炒めにしてしまったので、こちらは佃煮にしたのである。
酒はぬる燗。
昨日ももちろん、飲み過ぎた。
「道で女の人ばかり見てるんでしょ。」
おまえは何でもお見通しだな。
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コメント
初めまして、時おりおたずねしては、
他府県のお方から見た京都って、こんなん なんや…、と興味深く拝読しています。
さて、初めてのコメントで大変失礼なのですが、
丁子麩は京都のお麩やのうて、
滋賀の近江八幡名産やと思います(←こういう婉曲な言い回しも、そう言えば京都人はようします)。
家の父親が近江商人の家系で、「これは滋賀の味や}と私ら子どもに食べさせてくれてましたので、多分そうやと思います。
京子さんのこと間違うてはるみたいに言うてしもて、すみません。
こないして、京都と滋賀とはまた違いますて言いたなるところが、
京都人の誇りです。多分。
丁字麩が滋賀県名産だということは知っていたのですが、アマゾンに「京都の」と書いてあったので、「まあおなじか」とおもい、ああやって書いてしまいました。
修正しておきますね(^o^)