昨日は四条大宮で食事をし、家に帰ってさらに飲んだ。
「ひとり暮らしは気楽なもの」だと、改めておもうのである。
「ひとり暮らしは気楽なもの」などというと、結婚している人から眉をひそめられるかもしれないが、ひとり暮らしをしている人は、多くが同意するのではないかとおもう。
ただその前提として、「料理ができること」は必要で、それさえできれば最低限の幸せを確保することができ、実際のところそれほど不足は感じない。
今はネットがあるから、家でひとりで食事をしても、そこそこのやり取りをすることができ、べつに寂しいこともない。
また常連のバーでもあれば、ひとり暮らし同士の気楽な交流も可能である。
ただもちろん、好きな人と好きなものを食べるときの圧倒的な幸せ感は、ひとりの食事では得ることができないし、たまに人に甘えたくなり、寂しくなることもある。
だから彼女くらいは、いたらいいとはおもうけれど、「再婚したいか」といえば、それはもし次に彼女ができたとして、その彼女が望んだばあいは考えなくもないけれど、今の時点では、下手な面倒を背負い込むことになるよりは、ひとりでいたほうが気楽だとおもう。
昨日はいつも行く四条大宮のバー「スピナーズ」へ行き、独身アラフォーである松下奈緒に似た女性と、麻生久美子に似た女性と話をしたが、やはり「ひとり暮らし」については、おなじ考えのようだった。
松下奈緒はバツイチで、麻生久美子は結婚していないが、ともにひとり暮らしを満喫しているようである。
「仕事をして、さらに旦那の面倒を見るとか、考えられないよね」
と松下奈緒。
「そうそう、洗濯にしたって、一人分だって仕事しながらだとけっこう大変なのに、さらに旦那の分をするとか、ありえないよね」
と麻生久美子。
「ただたまに、例えば旅行から帰ってきて、『京都駅まで迎えに来て』とか電話できるような人はほしいね」
松下奈緒が言うと、
「うんうん、あと『ご飯ごちそうして』って言える人とかね」
麻生久美子も同意する。
要は「アッシー君」と「メッシー君」がほしいという話である。
今後もこのように、「結婚しない」選択をする人は増えていくのだろう。
また結婚しても、「嫌いな人といっしょに住むよりは」と、離婚する人も多くなるのだとおもう。
ただそうなると、ぼくたちのようないい年の人間にとっては問題ないが、若い人は、困ることもあるだろう。
結婚しないと、子供を作るのがむずかしいからだ。
しかしこれは、法律の改正など、社会的に考えていかないといけないことなのだとおもう。
女性が離婚しても、また結婚しなくても、経済的な苦境に陥ることなく、自由に子育てができるようにならないと、出生率の低下はおさまらないのではないだろうか。
スピナーズでは昨日、他にもあれこれ話しをし、おもしろかった。
ぼくのような外から来て、ひとり暮らしをしている者にとって、バーは地元の人と出会い、交流することができる得がたい場所なのである。
マスターのキム君が話をはじめた。
「きれいな女性って、話をしても面白くないことが多くないですか・・・」
これはもちろん、「ネタ振り」の一種であり、きれいな女性でも、きれいでない女性でも、話をしておもしろい人もいれば、おもしろくない人もいるのはもちろんである。
「じゃあ私はきれいじゃないっていうの?」
「それってキム君の偏見だとおもうな。」
女性陣も一斉に反応する。
キム君としても、そうやってお客さんの反応を得て、場を盛り上げることが目的で言っていることだから、きれいな女性の話がおもしろくても、つまらなくても、どちらでもいいのだけれど、その言い方が、「いかにも関西人」という感じで興味深かった。
「たとえば『話題を提供する』とかそういうことを、きれいな人はあまりしないとおもうんですよ・・・」
キム君は言う。
さらに、
「やっぱり頭のいい人は、『おもしろいことを言う人』だと思うんですよ。
きれいな人は何もしなくても人が寄ってくるから、『おもしろい話をしよう』という努力をしていないんじゃないかと思うんですよね」
と来るのである。
ぼくはキム君の、「話題の提供」や、「頭のいい人はおもしろいことを言う人」という言い方が、「関西人らしい」とおもったのである。
昨日も少し書いたけれど、京都人、おそらく同様に「関西人」は、基本的に「奥ゆかしい」のだとおもう。
本当に思っていることをすぐに言うのでなく、人との「距離」を測り、場の「空気」を読みながら、慎重に口に出す。
ただだからと言って、そのあいだ何も喋らないのではない。
実際にはまったく逆の話で、関西人は「よく喋る」のである。
よく、
「会話は言葉のキャッチボールだ」
と言われることがある。
相手の言葉を受け止め、また相手が受け止められるような言葉を投げることが大事だ、という意味だろう。
でもぼくは、関西人の会話をバーのカウンターなどで聞いていて、それとは別の印象をもつ。
むしろ、
「バレーボールのようだ」
とおもうことが多いのだ。
ぼくなどはこれまで、
「言葉とは『自分の想い』を表現するものだ」
とおもってきた。
お互いの想いを受け止め合い、それによって互いの理解を深めていくのは、まさに「キャッチボール」というにふさわしい。
しかし関西人のばあいには、言葉を「想い」とは切りはなして扱うことができるのではないかとぼくはおもう。
機能的な側面だけをとり出して、それで「遊ぶ」ことができるように見えるのだ。
「話題の提供」は、まずはバレーボールの「サーブ」のようなものだ。
そのボールを、皆が「拾い」ながら、会話がつづけられていく。
そのうち誰かが「トス」をしたボールを、「アタック」する人が出てくる。
アタックされたボールをさらに拾うと、その人は周囲から拍手されたりすることになる。
この遊びの目標は、「人を喜ばせること」だ。
だから交わされる言葉は、「ほめ言葉」であったり、さらに「おもしろい話」であったりする。
ほめるのは、誰でもその気になればできるけれど、「おもしろい話」で人を喜ばせるには、それなりの「腕」が必要となってくる。
それがキム君の言う、
「おもしろいことを言える人が頭がいい」
ということになるのだろう。
関西では、このように会話を回していけるから、逆に「想い」のほうは、奥ゆかしく、ゆっくりと表現していけることになるのではないかとぼくはおもう。
しかしそのような表現方法は本当に高度で、ぼくはまだまだドン臭く、いつもボールを落としてばかりなのは言うまでもないのである。
スピナーズでは昨日も、ツマミのメニューが用意されていた。
かぼちゃのポテトサラダと蒸し鶏。
カボチャのポテトサラダは、カボチャの他にサツマイモが使われて、さらにピーナツと干しレーズンが加えられているという、先日食べたラタトゥイユと同様、けっこうなひねりが利いたもの。
蒸し鶏も、パサパサせずにジューシーで、ポテトサラダとの相性もよかった。
スピナーズでひとしきり話をし、ぼくはさらに立飲み「てら」へ向かうことにした。
昨日は「外で食事をする」と決めていたので、もう少しなにか食べたかったからである。
さて昨日てらで頼んだのは、
豚天250円。
ちくわ天100円。
冷奴100円。
つくね130円。
ぼくはいつもおなじものを頼むのだが、食べたいのだから仕方がないのである。
ぼくは加えて飲み屋にしても、いつもおなじ店ばかりに行きがちである。
これについてはブログを見てくれている京都の友人から、
「木屋町や西院にもおもしろい店はたくさんあるのだから、そちらへも行ったらいいのに」
と言われたりすることもある。
しかしぼくは、晩飯は家で食べることが基本で、外へ食べに出るのは週に2~3回である。
新規開拓もしたいのは山々だが、2~3回だと、まずはいつも行っている店をまわるだけで終わってしまうことになる。
それにおなじ店へ何度も行くと、その店の常連さんと、次第に顔なじみになってくる。
ひとり暮らしにとっては、やはり「人のつながり」を得ることが、外へ食べに行く大きな目的にもなってくるから、なおさらおなじ店ばかりに行くことになってしまうわけなのだ。
昨日はてらの常連さんとも、食べながら少し言葉をかわした。
たくさん話すわけではないが、つづけて通えば、より親しくなるのだから、それでいいのである。
てらを出て、家に帰ってさらに少し飲むことにした。
簡単な肴をいくつか作る。
油揚げの焼いたの。
フライパンで表と裏をこんがりと焼くだけだから、本当に簡単なのである。
ショウガと青ねぎにポン酢をかけた。
長芋の千切り。
卵の黄身と、わさび醤油。
卵の白身は、しょうゆを入れてその場で飲む。
とろろ昆布の吸物。
かつお節ととろろ昆布を入れたお椀にお湯を注いでしょうゆをいれ、青ねぎを散らしておろしたショウガを浮かべた。
酒は日本酒。
2杯にしておいたけれど、その前にけっこう飲んでいたから、今朝は少し残ってしまった。
でも外で飲めば、どうしても楽しくなってしまうのだから、いつもよりたくさん飲むのは仕方がないのである。
「おっさんは、きれいな女性は好きだよね。」
本当に弱いんだよ。
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コメント
私もいつも同じ店で同じ板さんと
話して似たようなものばかり
食べてます
食べたくなったら基本自分で作って食べるので
そんなもんです
板さんに会いに行くようなもんです
私も結婚は面倒なのでしたくないです
一人悠々自適に暮らしたいです
そのためには経済力もいりますけどね…
>言葉のキャッチボールではなくバレーボール。
なるほど、その通り。
使わせてもらいます。
ƪ(΄◞ิ◟ิ‵)ʃ
私は最近は結婚して家族になるのもいいかなぁ~お思っていますよ。
今の世の中、自由は簡単に手に入りますが、わずらわしさの中にも幸せがあるような気がします。
気楽なのもいいけど、誰かのために責任を持ったり・・・ちょっと窮屈な方がより幸せを実感できるかも・・・です。