昨日は先日食べそこねた、カレイの煮付けを晩メシにした。
煮付けを作りながらしみじみと幸せを感じ、「幸せは自分で生み出すものなのだ」と、改めておもったのである。
このところ、「生活」について、あれこれ考えているのである。
先日「仕事を生活と錯覚する」と書いたわけだが、それならば、「生活とは何か」についても、きちんと明らかにする必要があるだろう。
しかしこれは、考えてみれば、簡単なことだった。
生活とは、「生きていく」ことである。
生きていくためには、「食べること」を初めとして、様々なことをしていかなくてはいけない。
そういう、生き物としての人間が、最もしなければならないことをしていくことが、「生活する」ことである。
生き物の基本的な仕組みとして、生きていくために必要なことは、「欲求」を感じるようになっている。
そして欲求が満たされると、「幸せ」を感じるわけだ。
だからおのずと、生活の基本は「幸せを追求する」こととなる。
これは体の仕組みによって決まることで、理屈ではないのである。
生き物はみな、この原理で動いているのだろうけれど、人間の場合には、それが一筋縄ではいかない。
「頭脳」をもっているからだ。
動物はみな、「パンダなら笹」とか、「オオカミなら肉」とか、食べるものが決まっている。
だからそれぞれ、決まったものを食べれば、幸せを感じるはずだ。
ところが人間の場合には、食べるものが決まっていない。
何を食べてもいいのなら、エサがなくなって絶滅することも減り、生存に有利だということなのだろう。
しかしおかげで人間は、食事のまえに、「何を食べるか」を考えないといけなくなった。
この、「頭脳によって、何を食べるか考えないといけない」ことが、人間が他の動物と、最もちがうことである。
時々主婦の人が、「献立を考えるのが苦痛だ」と言うのを聞くことがある。
仕事として、他人のために料理するとなってしまうと、そういうこともあるかもしれない。
しかしぼくはこのところ、その日の献立を考えるのが、たのしくて仕方ないのだ。
最近では、酒のいきおいも手伝って、1時間ほども考えてしまうことがある。
何がたのしいとぼくが思うかといえば、
「何を食べるかを考えることは、まさに創造活動だ」
ということだ。
頭のなかで、自分が食べたいものが組み上がっていく、そのプロセスが、なんともワクワクするのである。
考えはじめは、「肉か魚か」というようなところから始まり、「魚」と決めて魚屋へ行き、カレイを見て「煮付けにしよう」となる。
「そこにゴボウを入れよう」「そうめんも入れよう」などと次第に煮付けのイメージは明確になり、さらに「ゴボウは別鍋で煮汁をうすめて炊こう」「そうめんはゆでてから入れよう」と、作業の段取りも決まっていく。
冷蔵庫を見ながらサイドメニューも考え、そうして1時間ほどもあれこれネチネチやっていると、「食事のイメージ」が、細部まで完璧にくっきりと、頭のなかで完成する。
これは非常な達成感があり、ぼくはこの頭の中のイメージを肴にして、さらに酒を一杯飲んでしまうほどである。
あとはこのイメージ通りに、料理を作るだけである。
できる限りイメージに忠実にしたいから、料理はていねいに、チマチマ作る。
イメージ通りの料理が実際に出来ていくから、強烈な「実現」を感じることになる。
ぼくは昨日、料理をしながら、その「実現」に、しみじみと幸せを感じたのである。
「食」は人間の中心的欲求なのだから、ぼくはこのことが、人間の「幸せ」の基本パターンなのではないかとおもう。
人間は、創造活動により、幸せを「生み出す」のである。
さて自分で料理をつくる場合は、それで話は終わりだけれど、食事にはもう一つ、「外食」がある。
外食については、話がちょっと、ちがってくるのである。
まず外食は、創造行為ではない。
「選ぶ」のである。
自分が食べたいものが漠然とあるとして、まずはそれが食べられそうなお店を選ぶ。
次にお店へ行って、メニューの中から、食べたいものに近いものを選ぶことになる。
この「選ぶ」という行為の中に、独特のむずかしさが入ってくることになるとおもう。
選ぶ際には、「評価」しないといけないからだ。
お店を選ぶ際に、ただ「自分が食べたいものが食べられそうな店」というだけでは選ばないだろう。
「いい店」を選ぶはずである。
お店でメニューを選ぶ際にも、「食べたいものに近い」だけでなく、「おいしいもの」を選ぶはずだ。
何かを選ぼうとするときには、かならず「優劣」が含まれることになるのである。
そうすると、食べることによる「幸せ」は、外食の場合、自分で料理するのと少しちがうことになってくる。
外食で感じる幸せは、もちろん一つは、「食べたいものが食べられた満足」であるけれど、それだけではないだろう。
「こんなおしゃれなお店で食べられる自分」「こんな高いメニューを選べる余裕のある自分」などという「優越感」も、含まれることになるのではないか。
また逆に、「こんなお店でしか食べられない自分」「こんな安いものしか頼めない自分」という「劣等感」も、含まれてくることになるのである。
このように外食においては、自分で料理するのとちがい、「他人との比較」が生まれてくるのだ。
しかしこの「他人との比較による幸せ」は、あくまで「二次的な幸せ」である。
人類はもともと長いあいだ、自分で食べるものは、自分で料理してきたはずだ。
外食などつい最近、おそらくは「貨幣」が生まれることに伴ってはじまった、二次的なものだろう。
「幸せ」とはまず、体のなかから湧き上がり、しみじみと噛みしめる「実感」である。
それは「食」に限定していえば、自分で料理する場合にのみ、得られるものではないだろうか。
今の時代、「自分はお金がないから不幸だ」とおもっている人は、少なくないのではないかとおもう。
でもそういう人の多くが、食事を外食にたよっているのではないかと、ぼくは想像するのである。
というわけで、カレイの煮付けなのだが、昨日はすこしうすめに炊くことにした。
前はかなりこってり炊いていたのだが、酒房京子であっさりめの煮付けを食べるようになり、「これもいいな」とおもうようになったからだ。
それからゴボウは、別鍋にとったカレイの煮汁をうすめて煮ることにした。
魚屋の女将さんに、
「そうしたほうが絶対うまい」
といつも言われるからである。
さて煮付けだが、「煮付けはむずかしい」とおもう人もいるかもしれない。
たしかに煮付けには、独特のむずかしさはある。
煮付けは煮汁を飛ばしながら煮る。
それによって煮汁を、元々の調味料の濃度より、さらに高い濃度にすることができ、「こってり」させることができるからだ。
ただそうやって煮汁を飛ばすことになると、残った煮汁が適切な時間内に、適切な濃さになるために、多くの要因がからみ合ってくることになるのである。
煮はじめる際の煮汁の量が関係するのはもちろんのこと、火の強さや鍋の形なども、蒸発する水分の量を左右することになる。
だから煮付けは、レシピとして、一般的な形に書き下しにくい料理なのだ。
そのことが、「煮付けはむずかしい」と思われることにつながっているとおもう。
ただ煮付けは、「煮時間」さえ間違えなければ、あとは砂糖と塩を間違えでもしないかぎり、そうそう不味くなることはない。
だからまずは、レシピに書いてある通りにやって、あとは自分のガス台や鍋、好みに合わせ、加減を変えていくようにすれば、おいしいのが出来るようになるのである。
魚は水で洗い、両側の皮に切れ込みを入れておく。
これは皮がちぢんで身が反るのを防ぐためと、味をしみ込ませるためである。
だし昆布を敷いた鍋に魚を入れ、水1カップと酒2分の1カップ、砂糖とみりん大さじ5を入れる。
強火にかけ、煮立ってきたら中火にし、アクをとり、落としブタをして5分煮る。
5分したら、しょうゆ大さじ2を入れ、さらに5分したら、またしょうゆ大さじ2を入れる。
さらに少し煮て火を止める。
煮時間は、全体で10~15分である。
「15分以上煮るとパサパサになる」とだけ覚えておけば、そうそう失敗はしないのである。
さらにゴボウを炊くために、別鍋に半分ほどの煮汁をとる。
魚はそのまま煮汁にひたし、味をしみ込ませるようにする。
煮汁を倍ほどにうすめ、ささがきにし、水にさらしたゴボウを煮る。
ゴボウが煮えたら火を止めて、1分ゆでたそうめんを入れ、そうめんにも味をしみさせる。
皿に盛りつけ、カレイの濃いほうの煮汁を上からたっぷりかけて、青みをふる。
ホクホクなのである。
ゴボウはやはり、うすい煮汁で別に炊いたほうがうまい。
そうめんは、しみた煮汁を味わうために入れるのである。
煮汁が余ったら、捨てずに取っておくようにする。
それを使って、定番はおからだが、野菜でも何でも煮たらいいのである。
あとはとろろ昆布の吸物。
とろろ昆布には、薬味はやはり三つ葉である。
ユズの皮の切れっぱしをのせれば、さらにうまいのは言うまでもない。
厚揚げの焼いたの。
大根とショウガのおろしたのと青ねぎ、ポン酢醤油。
春菊と油揚の和物。
さっとゆで、水に取ってしぼった春菊と、フライパンでこんがり焼き、細く切った油揚げ、ちりめんじゃこを、みりんとうすくち醤油それぞれ少々で和える。
甘みのあるしょうゆ味で和えるのは、酒房京子で覚えたのである。
「料理もいいけど、仕事もちゃんとしないとね。」
そうだよな、がんばるよ。
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コメント
はじめまして、ゆうと申します。
レシピブログを徘徊していたら辿り着きました。
料理を楽しんでいる様子が伺えて、幸福のお裾分けを頂いたような気分です。
呑みながらの料理、私も好きです。煮魚はまだ挑戦したことがないので、今度作ってみます。ゴボウはもちろん別鍋で!