昨日は、鯛のあら炊きほか5品をつくった。
ぼくの昨日の時点での幸せは、これなのである。
ぼくはこの頃、「幸せ」について考えることが多いのだが、それは今が、「幸せが見えにくい時代」だと思うからだ。
バブル崩壊以前のように、「いい大学を出て、いい会社に入り、彼女を見つけて結婚し、家を買って子供をつくり、家庭を築くことが幸せ」とは、今はなかなか思えないようになっている。
だから今の若い人が、「自分は金もない、定職もない、彼女もいない、家も車もない、だから不幸だ」と思うことが多いのではないかと、ぼくは想像する。
しかしそれに対し、「そうではない」と、金も定職も彼女も家も、車もないぼくは言いたいのである。
「人間は、『食べること』に気を配りさえすれば、最低限の、そして十分な、幸せを感じることができる。」
それがぼくが、伝えたいことである。
ぼくは毎週、ラーメン屋へ行き、ビールと餃子とラーメンを、最近はビールを餃子をお代わりするから2,350円を払って食べ、この世のものとは思えないほど大きな幸せを感じる。
2,350円を高いと思う人もいるかもしれないが、最大級の幸せを得るための費用が、これだけだということである。
自炊をすれば、幸せを感じるための費用は、もちろんのこと、もっと安い。
別に高い材料を買わなくても、100グラム85円の豚コマ肉や、パックにたんまり入って300円の魚のあらを買ってきても、十分幸せを感じる食事を作ることができる。
ただこれについては、今までぼくは、確信をもって言い切れないところがあった。
ぼくが毎週行っているラーメン屋、「新福菜館三条店」の餃子とラーメンは、かならず毎回、幸せを感じるのに、自分の料理は、「おいしい」とはおもっても、かならずしも毎回、幸せを感じていたわけではなかったからだ。
「どのように料理を作ったら、幸せを感じるのか」が、今までは、自分でも今一つよくわからなかったということなのだ。
しかし今回、ぼくはそれが、もちろんそれは、「ぼくの幸せ」についてのことで、一般的に言えるかどうかはあずかり知らないことなのだが、かなりはっきり、わかったのである。
そのまず第一は、「じっくりと時間をかけて考え、ていねいに作る」ことである。
これはまず、「作る幸せ」に関することだ。
このあいだ詳しく書いたから、今日のところは詳細は省くけれども、じっくりと時間をかけて考えたメニューをていねいに作ると、作っている最中に、しみじみと幸せを感じる。
これはまず、ほぼ100パーセントの確率で、ぼくは幸せを感じることになっている。
ただ実は、作るときには幸せを感じても、食べるときには、普通においしいとはおもっても、「幸せ」とまでは行かない場合が、今まではあった。
それが何なのかと考えていたのだけれど、それが今回、わかったのである。
それは、「酒の肴に徹したものを作る」ことだった。
今までは、これがちょっと甘かったのではなかったかと、自分ではおもっている。
これは、ぼくが酒飲みだからである。
昨日も鯛のあらを、炊き込みご飯にしようか、あら炊きにしようかと迷った。
これをもし、炊き込みご飯にしていたら、ぼくはたぶん、それほど幸せは感じていなかったとおもうのだ。
思い起こしてみると、ぼくが今まで、食べながら幸せを感じたものは、酒の肴になるものばかりで、ご飯ものなどはそうでもなかった。
ぼくは「酒をおいしく飲むのが幸せ」なのだから、料理も、それに合わせたものでなければいけなかったのだ。
気付いてみれば、簡単な話である。
というわけで、昨日作った食事は、作るときはもちろん、食べるときにも、超弩級の幸せを感じることとなった。
その幸せは、この一枚の写真に凝縮している。
この写真が、昨日の時点での、ぼくの「幸せ」である。
こちらの写真は、クリックすると拡大するようになっているから、しげしげと見てもらえると嬉しいのである。
ちなみに鯛アラは、天然モノだったのだが、昨日の分で150円、材料費は全部あわせても、400円ほどである。
幸せの費用は、安いのだ。
さて作り方なのだが、昨日は魚屋が特売をしていて、天然鯛のあらが300円で売っていたから買ってきたのだ。
あらは両面、カマまで入り、ハラミや背骨、尾びれのあたりまで入っていたから、300円は破格である。
これをあら炊きにするためには、まず湯通しをする。
あまり熱いお湯でやると、鯛は皮がはげてしまうから、80度くらいが適温だ。
湯通ししたら、水でよく洗って血のかたまりやヌメリ、そしてウロコをていねいに落とす。
これをどれだけていねいにやるかが、あらを使う場合の最大のポイントとなる。
昨日は両面だと一人で食べるには多すぎるから、水で洗うところまでやり、半分をジップロックに入れて冷凍した。
ここまでやっておけば、あとは解凍してすぐに使えることになる。
あら炊きは、ゴボウとそうめんを添えることにした。
ゴボウとそうめんは別鍋で煮るから、それを見越して、煮汁は少し多めになるようにする。
鍋に5センチくらいのだし昆布を敷き、洗った鯛あらを入れる。
水1.5カップと酒0.5カップ、それにみりんと砂糖を大さじ5ずつ入れて火にかける。
沸騰したら中火にし、出てきたアクをサッととる。
これで落としブタをし、5分煮る。
5分たったら、しょうゆ大さじ2を入れる。
さらに5分、沸騰してから10分たったら、しょうゆをさらに大さじ1ほど、味を見ながら入れる。
さらに1~2分煮たら、火を止める。
この煮汁から、別鍋にゴボウの分をとり分けたら、魚は煮汁にひたし、しばらく置いておくようにする。
別鍋にとった汁に水を足し、うすめてから、大きめのささがきにして水にさらしたゴボウを煮る。
ゴボウも煮えたら、しばらく煮汁にひたし、味をしみさせる。
これは要は、あら炊きを最初に作り、サイドメニューは味をしみさせているあいだに作ればいいという話である。
味がしみたら、ゴボウをとり出し、その汁で、そうめんを固めに煮る。
そうめんは、ゆでたのを使ってもいいが、乾麺を、初めからこうして煮汁で煮ると、コッテリとした味になってうまい。
そうめんは、煮るときに大量の煮汁を吸うから、煮汁は少し多めにしておく必要がある。
皿に盛り、青ねぎを散らす。
これが最高の酒の肴になることは、言うまでもないのである。
鯛あらは、目の周りのあたりが「ドロッ」としてうまい。
ゴボウも味がしみている。
煮汁から煮るそうめんは、驚きのうまさである。
昨日はあとは、とろろ昆布の吸物。
とろろ昆布と、水にひたして絞った焼き麩、ざく切りの三つ葉をお椀に入れ、お湯を注いでしょうゆで味つけ、ゆずの皮の切れっぱしを浮かべる。
セロリの葉のじゃこ炒め奴。
ゴマ油と輪切り唐辛子、ちりめんじゃこで、セロリの葉を炒め、酒としょうゆで味付けしたものを、冷奴の上にのせる。
じゃこ炒めの濃厚な味と、豆腐の透き通った味が、なんともよく合うのである。
ほうれん草のおひたし。
削り節としょうゆ。
セロリとちくわの酢の物。
セロリはピーラーで筋をとり、できる限りうすく切って塩もみし、しばらく置いて、水で洗って水気をふき取る。
ちくわは斜めうす切りにする。
これを酢1:みりん2:うすくち醤油0.5の三杯酢で和える。
酒は月桂冠の上撰。
昨日はあまりに幸せで、ソファで眠りこけてしまったのである。
「好き勝手にしてるんだから、おっさんは幸せだよ。」
そうだよな。
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コメント
はじめまして、いつも楽しく読んでいます。28歳未婚の男です。
今日のエントリーの中の、
『バブル崩壊以前のように、「いい大学を出て、いい会社に入り、彼女を見つけて結婚し、家を買って子供をつくり、家庭を築くことが幸せ」とは、今はなかなか思えないようになっている。』
↓
『だから今の若い人が、「自分は金もない、定職もない、彼女もいない、家も車もない、だから不幸だ」と思うことが多いのではないかと、ぼくは想像する。』
という部分は、自分の感覚では(一般的な文意の流れからしても?)逆な気がします。
「いい大学、いい会社~が幸せとは思えない」ようになっているので、(むしろ)「金もない、家も車もない~が不幸だとも<思わない>」というのが自分の感覚ですし、周りの友人と話していてもそういった傾向が強いと感じます。
物ごころついたときには既にバブルが弾けていた世代としては、華やかなそれ以前の時代とそもそも比較する(比較できる)ような感覚がないですし、家や車や家族を持つことも、せっかくの自分の人生の身軽さを捨て去る選択に思えます。もちろん、今後歳を重ねていけばその限りではないのでしょうが。
むしろ、過去のバブル期を経験している年配の方のほうが、あの時代と現代との落差に捉われているように思えます。「現代は決して不幸ということはなく、むしろこれが普通であり、ただあの時代が異常であっただけだ」という認識です。(現代は)「幸せの閾値が低くなっている」というような言い方もできるかもしれませんが、自分にはそれが良いことにしか思えません。
というわけで、死ぬときに自分の人生を振り返って「あー楽しかった」と思えることが一番大事であって、良い女や良い車などは(虚勢を張るわけではなく、心の底から)どうでも良いと思えます。物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさを優先として考える、ということなのかもしれません。
自分は一応会社員ですが、半分フリーのようなやや特殊な環境で働いているので、周囲にもそのような人間が多く、その点でそれなりに偏った意見だろうという自己認識はあります。が、意外とこういう若者は少なくないとも考えているのでコメントしてみました。長文失礼しました。
はじめまして。初めてコメントさせていただきます。
私は京都市内在住ではないのですが、私用でときどき商店街に行くことがあるので、魚屋さんはあそこかな?八百屋さんはあそこだな♪と思いながら、いつも楽しく拝見しています。
おいしいものを食べて「しあわせ♪」と思うのは、女性の特権なのかと思っていましたが、自分の好きなものを作って自分で食べる、自炊者の特権なのかもしれませんね。
外食は外食で、シチュエーション的に楽しくておいしいと思うのですが、純粋に「自分の口に合うものを食べる」という意味では、自分で作ったごはんを食べるのが、イチバンおいしくて、しあわせだなぁと思うのです。
ときどき失敗して、不幸な気持ちになることもありますが…(^_-)-☆
今晩は…の、はとわを毎回悩んでます^^;
で幸せとは…楽しみ愉しみ、なのかなと勝手に思ってます。
“幸せ”自分が思うに、たのしいって事が無いと感じられないのかなと、例えばおいらはお神輿担ぐのが大好きですが、興味のない人にはなんで?と痛いし次の日のダメージは…
でもたのしいんですよ!
仲間と遊んで酒飲んで身体使って究極の幸せ、だってたのしいんだもん
^_^
こんばんは。
この前は幸せについて支離滅裂な長文失礼しました。
今回は簡潔に
幸せを感じる能力というものがあると思います。
僕はとても低いです。 美味しいものを食べても、作っても、その他の楽しい行為をしても幸せを感じることはほとんどありません。淡々と平坦な毎日を過ごしているだけです。 この能力が高い人が羨ましいです
また感動させて頂きました(*^_^*) 素晴らしいなー。
タカノさんのレシピ通りに作ってみました。
こんなの作ったの初めてです。
う、うんまい!カンドーです。幸せかどうかは、わかりませんでした。
鯛のアラ、私は250円でゲットしました。
また、お願いしますね。