「京都になじめない」という話を聞くことは時々ある。
でも京都に限らず、新しい土地になじむには、「その土地を好きになる」ことに尽きるのである。
先日道を歩いていたら、男性に「おっさんですか?」と呼び止められた。
ぼくのブログを見てくれているとのことで、たまたま姿を見かけたので、思わず声をかけてくれたということらしい。
地元の人で、自分もよく知る近くの飲食店や商店が、ブログに登場するというので、楽しみにしてくれているのだそうだ。
少し立ち話をしたのだけれど、その中で男性は、こういうことを言っていた。
「私は東京にも大阪にも住んだことがあるんですが、それと比べて考えても、このあたり、京都市の中心部は非常に閉鎖的だと思うんですよ。
そこに高野さんが入り込んでいる様子を見て、いつも感心しています・・・」
男性とは連絡先を交換し、また会う約束をして別れた。
ぼくは京都は、これまで住んだことがある名古屋や広島とくらべ、それほど閉鎖的とは思わないのだけれど、東京から来た人で、「京都になかなかなじめない」という人の話を聞くことは、時々ある。
そういう人は間違いなく、
「東京とくらべて京都はここがダメ、あそこがダメ」
という話をする。
でもぼくは、その人が新しい土地になじめないのは、そうやって、その土地を他の土地とくらべ、欠点をあげていくことそのものに、原因があるのではないかとおもう。
まずそうやって、欠点しか見えなければ、自分自身が、その土地になじめるわけがない。
またそうやって欠点しか見ていないことを、土地の人も気がつくから、人が寄ってくるわけがない。
結果、その人は孤立して、さらにその土地になじめなくなることになる。
それぞれの土地には、それぞれに固有の文化がある。
こんな狭い日本だけれど、これまで東京、名古屋、広島、京都と、4ヶ所に住んでみた経験を元にいえば、それぞれの土地の文化はおどろくほど大きくちがう。
異質な文化に出会ったとき、まず初めには、自分がそれまで慣れ親しんだ文化とくらべて考えるということは、たしかに誰でもするとおもう。
ただそうすると、どうしても、ちがいは「欠点」として映ってくることになる。
どんな文化も、それぞれに一貫した体系を持っている。
決まったことから「ズレる」ことは、それぞれの文化にとって、「失礼」だったり「下品」だったりするわけだ。
だから新しい文化に出会った時は、「好きなところを見つける」ことが大事なのではないかと、ぼくはおもう。
「好きなところ」は、自分がその文化に踏み込む糸口になってくれる。
とりあえず欠点には目をつぶり、好きなところだけ見ていくことで、その文化にたいする理解が深まる。
理解が深まっていくうちに、「欠点」と思っていたことも、実は別の意味があることに気付いたりするものなのだとおもう。
というわけで、昨日ぼくは、京都の好きなところ3ヶ所をまわった。
まずは新福菜館三条店。
それぞれの土地の人が、「新しい人」を受け入れる流儀は、土地によって様々にちがうものではないかとおもう。
これはあくまでぼくの印象なのだけれど、名古屋は「腹を割って話す」ことが、人と仲良くなるために大事なのではないかとおもう。
広島は、「上下関係」が強いというのがぼくが受けた印象で、人と仲良くなる際に、「どちらが上になるのか」を確認するための儀式がある。
京都の場合、「時間がかかる」というのがぼくが持っている印象だ。
新しい人を見た時に、時間をかけ、その人を受け入れて大丈夫なのかを見極める。
新福菜館三条店で、ぼくが「常連扱い」されるまで、週1ぺん通いながら、1年半の時間がかかった。
今はなじみになっているバーでも、やはり「受け入れてもらった」と思うまで、1年ほどがかかっている。
夜は、いつも買い物に行く三条会商店街のイベントがあったので、ぼくも誘われ出かけていった。
「立ち呑み三条会」というもので、商店街の人達が、一日だけの居酒屋をやるという企画である。
ぼくが商店街のお店で、買い物するようになって気付いたことは、
「ほめ言葉が贈り物である」
ということだ。
ぼくはこれが、「京都の礼儀作法が高度だ」と思う理由なのだけれど、言葉が「物」のようになっていて、あたかも贈り物をあげたり、返したりするようにやりとりされる。
だから京都の場合には、「ほめられる」ということが、「贈り物を受け取った」ことを意味わけで、ただ喜んでいては失礼になる。
かならず謙遜して礼を言い、さらにほめ返すことが必要だ。
これは一見面倒なようだけれど、実はまったく逆の話で、人間関係をラクに作るための一つの方法となっている。
作法にのっとって振る舞っていれば、人は認めてくれるからだ。
立ち呑み三条会では、初めは一人で飲んでいたが、そのうちいつもバーで会う、松下奈緒に似た女性が通りがかった。
そこでぼくは松下奈緒を無理やり呼び止め、いっしょに飲むことにした。
昨日はチェブ夫も同伴していた。
チェブ夫は女性に、常に人気なのである。
松下奈緒に、京都の礼儀作法の話をすると、松下奈緒も、似たようなことを経験しているとの話だった。
松下奈緒は、両親から譲り受けた古い一戸建てに住んでいる。
京都は町内会が盛んだから、一戸建てに住んでいると色々役割がまわってくる。
ある年役員がまわってきて、「どうしようか」と迷ったが、腹をくくって引き受けることにした。
運動会や地蔵盆などいくつかのイベントを、自営している仕事を休み、きちんと役割を果たしたら、地域の人が、自分を認めてくれるようになった。
それからは、地域で暮らす居心地がとても良くなり、一戸建てに住み続けることを決意したということだ。
人間関係が密なところは、たしかに入り込むまで多少の手間と時間がかかる。
ただ一旦入り込んでしまえば、居心地が本当によくなるものだと、ぼくも京都で感じている。
立ち呑み三条会で11時頃まで飲み、松下奈緒とはそこで別れて、ぼくは一人でスピナーズへ行った。
スピナーズは、今ではぼくの行き付けとなっているバーだが、やはり居心地がよくなるまでに、多少の時間は必要だった。
ぼくがバーで学んだのは、「空気」についてだ。
ぼくはそれまで、東京式に、バーテンに紹介されて他のお客さんと話すことしかしてこなかったので、お客さん同士が直接話す、関西式のバーの流儀になかなか慣れることができなかった。
そのうちだんだん、バーのカウンターには「空気」があり、お客さんはそれを読んで、話をすることがわかってきた。
空気は「話題」だったり、お客さんの「気持ち」だったりするものだ。
ぼくも以前よりは多少、空気が読めるようになってきて、するとバーにいるのがとてもラクになってきた。
空気が読めると、バーで無言でいる時も、居場所がなくなることがないのがいいところだとおもう。
昨日はスピナーズで、常連のお客さんと話していたら、あっという間に数時間がたち、気付いたら明け方近くの時間になってしまっていた。
スピナーズに来るとよくあることだが、昨日も前後不覚になり、店を出てから記憶がない。
「次の日もあるんだし、そんなに飲まなければいいのに。」
楽しくなると、忘れちゃうんだよな。
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京都流にていねいに料理を作ると、そこにはドラマがあったのである。
一杯のつもりで飲みに行ったら、10杯飲んでしまったのである。
コメント
高野さんこんばんは
土地でもヒトでも自分から心を開いて、良い部分を見つける事は大切ですね。わかっているのですが、なかなか出来ない事もあります。高野さんの穏やかな話し方がとても素敵です。それが第一印象でした。全く嫌味がなく、お話しているととても楽しいです。(お世辞抜きです)
私も札幌時代、京都と比較して欠点ばかり探していました。街も地元民も感性がいまひとつ合わず、本州出身のヒトとばかりのお付き合いでした。今にして思うとこちらの姿勢が問題だったのです。今になって反省しています。そして今出来る事は関西に住む他地域出身のヒトが「関西(人)嫌い」「京都人苦手」と言っても相手を責めず、自分の時の事を考えて暖かい気持ちで接する事だと気づきました