池波正太郎流・鶏の水炊き。
「自炊」は誰にでも保証された、「最低限の幸せ」なのである。
仕事のやる気は、相変わらず起きない。
寒いからである。
とはいえ全く仕事しないわけにはいかないから、きのうは老体に鞭打って、なんとか最低限の仕事はこなした。
本来しないといけない量の半分ほどなのに、もう肩は凝るわ、座りつづけで脚は痺れるわで大変だ。
晩酌は、「鶏の水炊き」と決めていた。冷蔵庫に食べ切ってしまいたい長ねぎと豆腐、それにニンジンがあったからだ。
鶏の水炊きに白菜を入れないのは、池波正太郎流。
ニンジンを丸や半月ではなく「細切り」にするのも、池波のこだわりだろう。
池波正太郎『そうざい料理帖』は、何を食べるか考えるとき、時々ページをひらく。
「小鍋だて」が色々と載っているからだ。
池波が「食」について書いたあれこれのエッセイから、「家での食事」のものだけ抜粋してあつめたもので、イラスト入りの簡単なレシピもついている。
とくに小鍋立てについては、池波は毎日のように自分で手をかけ、食べていたとのこと、随所にこだわりが感じられておすすめだ。
池波正太郎は、「食」については並々ならぬ執着をもった人で、それはエッセイ『食卓の情景』にくわしい。
十代のころは株屋ではたらき、そこでひそかに儲けた金で放蕩三昧をしているから、東京や京都をはじめ、全国の名だたる良店を知っている。
しかし池波は、ただ「グルメ」だったわけではない。
家での食事にも、一方ならず気をつかった人だった
池波は、朝起きるとまず、その日の夜何を食べるかを考えていたようだ。
奥さんに何をつくるつもりか聞き、それでよければそのまま、ちがうものが食べたければ、それから散歩がてら商店街で買い物し、買ってきた材料を奥さんにわたして作らせていたらしい。
それを池波正太郎は、奥さん、お母さんとは別に、一人で食べる。メニューも、奥さん、お母さんが食べるのとはちがうものだったそうだ。
私は、決してぜいたくはいわぬが、なにしろ、家に引きこもって数日間、仕事をしつづけていると、食べることだけが唯一のなぐさめになってしまう。
池波は書いている。
しかし、単に「なぐさめ」ではなかっただろう。
『食卓の情景』には、こんなくだりもある。
京都へ来たとき、四条大橋をあるいていると、若い友人「片岡君」と会った。そこで一緒に、タクシーで20分ほど行ったところにある、山あいの料亭へ行くことにした。
すがすがしい座敷で、山々の風景を眺めながら、4時間もかけて酒をのみ、食事をしたそのあとのこと、、、
「どうだ、うまかったかい?」
と、私が若い友人の片岡君にきくと、彼は、はにかんだようにうつ向き、
「ええ。ですけど・・・・・・ですけど、ぼく。納豆と味噌汁が食べたかった。でも、いいんです。明日の朝は、宿で食べられるから・・・・・・」
「新婚半年で、朝の味噌汁と納豆が食えねえのか?」
「ええ。ワイフがそんなものは下等だからといって・・・・・・毎朝、ハムエッグとトーストと、それから・・・・・・」
「勝手にしやがれ」
と、私は舌うちをし、
「君のような若いのを、おれは二人も三人も知っている。食べたくないものが出たら食卓(おぜん)を引っくり返せ。それでないと、一生、食いたいものも食えねえぜ」
「はあ・・・・・・」
片岡君は、悄然と北山しぐれに見入ったままであった。
いま、奥さんのつくった食事が気に入らないからと食卓をひっくり返したりしたら、即・離婚はまちがいがないところだろう。「片岡君」の年代でも、やはりそうだったのではないか。
しかし、池波正太郎がいわんとしていることは、
「食べたいものを食べることの大事さ」
だ。
このことは、『食卓の情景』全編をつうじ、貫かれているようにおもえる。
先日、ブロガー・イケダハヤト氏が、
「」
と書いていた。ここしばらく奥さんが用事があり、朝食だけ、一人で食べるようになったとのこと。
すると、
なんとまぁ、白米の味がしないんですよ。独りでもそもそと食べていると。
なのだそうだ。
さらに、
そんなわけで今更ながら、食事の味は「誰と食べるか」で大部分が決まるなぁ、と感じ入ったわけです。
とつづけている。
イケダ氏の気持ちはわかる。ぼくも彼女とつき合い、毎日のようにいっしょに晩飯を食べていたころ、たまにひとりで食べないといけなくなると、食事がなんとも味気なく感じたものだ。
しかし、それも一時のこと。彼女と別れたあとは、すぐにまた元のように、ひとりでもおいしく食べられるようになった。
ひとりの食事がさびしくツライのは、「不味いもの」を食べるからだ。コンビニで買ったものを食べるなど、ぼくにいわせれば「最悪」だ。
食べるものがうまければ、それをひとりで食べても、「幸せ」になるのである。
もちろん好きな女や、愛する子どもと一緒のときにくらべれば、「天と地」ほどの開きはあろうが、それでも最低限の、しみじみとした幸せを感じることはできる。
「しかしうまいものを食いたくても、カネがない、、、」
そうおもう人もいるだろう。
だからこその、「自炊」なのである。
自分が頭に想いえがいた、「食べたい」とおもう通りのものを、実際に作れるようになるまでそれほど時間はかからない。2~3ヶ月もあれば、十分なのではないだろうか。
自炊ならいうまでもなく、カネもたいしてかからない。
「片岡君」は、京都の一流料亭で食べた料理を、あまり「うまい」とおもえなかった。本当は、「納豆と味噌汁」が食べたかった。
食べたいものを食べるからこそ、うまいのだ。
それには「自分でつくる」のが、一番の早道なのである。
そういうわけで、きのうは鶏の水炊き・池波正太郎流をたべた。
水炊きは、文字通り「水で炊く」わけで、ただ水だけでももちろんいい。
でも昆布でだしをとったり、さらに酒をいれたりすれば、もっとおいしくなるわけだ。
昆布は10センチくらいのを、4カップほどの水で、煮立てないよう10~20分煮出す。
支度の一番はじめにやってしまえば、あとは火にかけておくだけだから、べつに手間もかからない。
いれる具は、食べやすい大きさに切った鶏もも肉と豆腐、ざく切りにした長ねぎと、細切りのニンジン。
昆布だしに酒大さじ3ほどをいれ、まず一回分の鶏肉とネギ、豆腐だけ、煮立てないようにしながらしばらく煮る。
鍋は、ゆっくり煮るのが肝心だ。煮ているあいだに食べるものを用意しておくといい。
きのうはセロリの葉の卵炒め。
オリーブオイルを中火で熱し、ちりめんじゃこ、余りもののセロリの葉と玉ねぎをサッと炒め、淡口しょうゆ少々で味付けしたら、溶き卵をくわえてまとめ、黒コショウをふる。
食べながら酒をのむうちに、ニンジンに火が通ってくる。
そうしたらネギをくわえ、サッと煮て火を落とす。
味ポン酢と一味をかけて食べる。
酒は、熱燗。
池波正太郎は、
水炊きの鍋には、濃厚なスープがたっぷりと残ってい、これを胡椒と塩で味をととのえ、熱い飯にかけて食べる。
うまいこと、おびただしい。
と書いている。
これはきょう、これからやる予定である。
こうしてぼくは、毎晩きっちり、「最低限の幸せ」を味わっている。
「ひとり飯はさびしい」とおもう御仁は、ぜひ自炊に挑戦してもらいたい。
「酒もいいけど仕事もね。」
そうだよな。
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