京都と名古屋で、距離のとり方もまた違うのである。

チェブ夫 京都について

 
京都での距離のとり方にもようやく慣れた。

チェブ夫

距離のとり方も、京都と名古屋ではまた違うのである。

 

 

会社に勤めていた時は、「人との距離」をとくべつ考えたことはなかった。会社の関係者とつき合っている限り、距離はすべて、あらかじめ決まっているからだ。

上司がいて、部下がいる。他部署の人がいて、取引先や業者がいる。

決められている距離を、守りさえすれば済むのである。

 

ところが会社をやめて京都へ来て、ぼくはこの「距離」に悩むこととなった。京都は「距離の文化」とすら言えるのではないかと思う。

すべての人は、周りのすべての人との距離を、自分で決め、それを元に親しさの加減を変える。

初めはその距離が存在することすら分からず、「どういう話し方をすれば、親しく話せるのか」ということばかり考えていた。話し方の問題ではなく、距離の問題だと分かったのは、京都へ来て1~2年が経ってからだ。

 

いま思えば、距離のとり方がまったく分からなかった人間が京都へ来るということは、泳ぎがまったくできない人が、水泳の上級クラスへいきなり入るようなものだったかもしれない。

京都へ来てから4年が過ぎ、おかげでいまは、前よりは多少はうまく、距離を計れるようになり、居心地もとてもよくなっている。

 

京都では、例えばバーのカウンターで、まだ距離が遠い相手に親しげに話しかけて、完全に無視されることがある。ぼくも何度も経験があるのだが、ある時、東京から京都へ来て2年ほどになる人が、それで激怒しているのを見た。

「マナー違反だ」というわけだが、それは「郷に入れば郷に従え」なのである。マナーとは違うもので動く文化があることを、こちらが知るべきなのだろう。

最近ではぼくも、知らない人に話しかけてこられても無視することもあるけれど、べつにそれで、角が立つこともない。

 

ただしこれが、名古屋はまたちがう気がするのである。名古屋は2年ほどしかいなかったし、ぼくはそのころ会社勤めをしていたから、はっきりとは言えないけれど、「名古屋には距離がない」のではないだろうか。

象徴的だと思うのは、電車の中で、知らないおばあさんなどからよく話しかけられるのだ。それも、いかにも家で、家族に話しかけるかのような自然な口ぶりなのである。

 

バーなどでも、距離のとり方に苦労したことがない。いきなり親しげに話しかければ、そのまま仲良くなっていける。

むしろ名古屋の人は、そうやって初対面でも、腹を割って話すことをよろこぶ気がする。こちらが空気を読んだりして、ちょっと大人しくしていると、「もっと話せ」と言うほどだ。

 

これは名古屋が、武家文化の流れを汲むからではないかと思っている。名古屋は信長、秀吉、家康が生まれ、徳川家の本拠地だろう。

武士は互いに、ともに戦う運命共同体となるわけだから、そこに下手なな距離があっては命に関わることもあるだろう。

それに対して京都の文化は、貴族の流れを汲むだろうから、それぞれの顔を立てるために、細かく距離を決めるではないだろうか。

 

「おなじ日本でも色々だね。」

チェブ夫

そうなんだよな。

 

 

 

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