京都へ来て、日本文化は「察する文化」だとつくづく思うのである。
相手の心持ちをおたがいが推し計り、それに合わせた振るまいをする。
これは「長いものには巻かれろ」式の、理不尽であっても声高に主張すれば、諾々としたがうことにもなりがちで、日本の今の苦境はそこにも大きな理由があるようにも思える。
でもこのことは、争いを極力避け、平和に暮らす知恵でもあり、日本の美点であることもまちがいがないだろう。
京都は千年以上にわたって都だった場所だから、「察する文化」についてはさらに徹底されているように思える。
ぼくのような他所者が場にそぐわないことをしたとしても、それが表立って指摘されることは、まずない。
こちらが自分で察することを時間をかけて待つのであり、それが「京都の人は冷たい」と言われることもある理由だろう。
といってただ抑圧的になるのでなく、京都は学生に寛容だったり、京都大学がノーベル賞級の発見を量産するところであったり、新しいものを積極的に取りいれる柔軟さも同時に持ちあわせているのである。
そんな京都だから、ラーメンの食べ方も「察するもの」となっている。
新福菜館三条店の大盛ラーメンは、推奨されるはっきりとした食べ方があるのだが、これをぼくが合点するまで、週に一回通いながらも一年半の月日がかかった。
貼り紙などで食べ方が書いてあるわけではないし、お店の人に確かめたわけでもない。
聞いても「お好きにどうぞ」とニコッと笑われるだけだろうが、この食べ方には多くの合理性があり、ぼくは「まちがいない」と思っている。
新福菜館の大盛りラーメンは、ただ並ラーメンの量が増えるだけではなく、「生卵」と「もやし」という、並ラーメンにはついてこない具が添えられてくる。
これをどのように扱うかが、第一の問題だ。
ぼくは1年半のあいだ、これらに初めから手を付けていた。
しかしそれが「まちがい」であるのに気付いたことが、食べ方を発見したきっかけだった。
なぜまちがいなのかといえば、まずは卵を溶かずに食べたほうが「うまい」からである。
新福菜館のラーメンは、チャーシューと青ねぎだけの、並ラーメンのラインナップですでに完成されていて、大盛ラーメンを食べるにしてもそれを味わわないことはあり得ない。
それではなぜ「卵ともやしが入っているのか」が疑問となる。
それが「味を変えるためだ」というのが、「発見」だったのである。
京都では、食べている最中に味を変えることがよくされる。
湯豆腐を、はじめ中が冷たい時点で「どうぞお食べください」といわれるのもその一つだし、祇園「松葉」のにしんそばは、甘辛いタレで煮られたにしんが丼の底に沈んでいて、はじめは上にかけられた薄味のだしを味わい、そのうちにしんに箸をつけると、タレが浮かび上がってきてだしの味が変わるようになっている。
「食の楽しみ方」として何とも小憎いやり方で、これにはじめて気付いた時も、ぼくはかなり感動した。
新福菜館の卵ともやしも、これと同じだということなのだ。
新福菜館の創業者は、「量が多い大盛りは、食べているうちに味に飽きるだろう」と考えたろう。
そこで味を変えられるようにしたわけだが、これが生卵ともやしだというのが気が利いている。
新福菜館の甘辛いスープと合わせると、ちょうど「すき焼き」のような味になる。
まさに「二度おいしい」と言いたくなるわけである。
さらに大盛ラーメンを食べる時には、おすすめのやり方がある。
麺をどんぶりの底から全部引き出し、上にのせてしまうのだ。
こうすることで、食べるのに時間がかかっても、麺が伸びにくいことになる。
その上もやしとネギがスープに沈み、もやしには味がしみ、ネギはやわらかくなるのである。
昨日もいつもと同様、ラーメンを食べる前にはビールと餃子をおかわりした。
食べ終わって「死ぬか」と思うほど満足し、家に帰って極上の昼寝をした。
夜はもう腹は減っていなかったから、軽い肴で晩酌した。
菜の花の卵炒めにみょうがの赤だしなど、というラインナップである。
菜の花の卵炒め。
フライパンにたっぷり目のオリーブオイルを引き、菜の花をサッと炒める。
砂糖とうすくち醤油それぞれ小さじ1で味をつけ、溶き卵をいれてさらに炒める。
かつお節と一味をふる。
みょうがの赤だし。
昆布と削りぶしのだしに八丁赤だしみそと少しのみりんで味をつけ、油あげを煮てお椀によそい、タテに細く切ったみょうがを散らす。
万願寺の焼いたの。
かつお節と味ポン酢、一味。
しじみショウガ煮。
すぐき。
酒はぬる燗。
昼にきちんと飲んでいるから、夜はわりかしサックリ終われる。
「ぼくはきちんと厳しく言うよ。」
いつもありがとな。
コメント
そうですね、かなりもっちりし、食べ応えのある麺ですよ。