京都へは、「いい場所に越してきた」とつくづく思っている。
京都の人の「他人の自由」を尊重する態度は、人見知りで偏屈なぼくにはじつに居心地いいのである。
京都はじつに居心地がよく、「いい場所に越してきた」とつくづく思っている。
京都を選んだ理由は、「住んでみたい」と思ったからで、「関西」に興味があった。
東京に四十過ぎまで住み、そのあと名古屋、広島で2年ほどずつ暮らしたぼくだが、関西は「未知」だった。旅行や仕事で何度も行ったことはあったが、生活したことがなかったので、土地柄について今一つつかめなかった。
「大阪」と思わなくもなかったが、都会については東京で暮らしてよく分かっているから、「それよりは京都だろう」と思ったのである。
京都へ来てみてビックリすることは多かったのだが、中でも戸惑ったのが「酒場での過ごし方」だ。東京にいた時はもちろん、名古屋でも広島でも、マスターなりバーテンなりと仲良くなれば、あとはその場でお客さんを紹介してくれたりして、交友関係を広げることがすぐできた。
ところが京都では、マスターもバーテンも、そうして人を紹介などすることは、ほとんどない。といってお客さんが話しかけてくることも、店によって違うのだが、あまりないことが多い。
酒場にひとりでポツンとし、身の置き所がない思いをすることがしばらく続いた。
それでもそのうち、酒場に通い続けていると、顔を合わせることが多い常連さんとは、何とはなしに気心が知れてくる。言葉を交わしていなくても、振るまいを見ていれば、身近な感じがしてくるものだ。
すると自然に、その常連さんと話をするようになる。すでに気心は知れているから、話すのにも気負いがない。
そういう人が少しずつ増え、今では京都大宮の街へ行けば、心地よく話せるたくさんの常連さんがいるようになっている。
人とのこのような付き合い方は、人見知りで偏屈なぼくにはとてもありがたい。近くにいる人であっても、まだ気心が知れない人とは話さないのが普通だから、無理して話す必要がない。
東京にいたころにはよく、黙っていると、「どうしたの?調子悪いの?」と聞かれたものだ。これは一種の「牽制」で、暗に「黙っていると雰囲気を壊すから、まわりに合わせて話しなよ」と言っているのだろうと思っている。
そればかりか直接的に、「興味がある話題だけ話してあとは話さないのはマナー違反だ」と指摘されたこともある。
でも京都では、そのような言われ方をされたことは、一度もない。黙っていれば、まわりも「あの人はそういう人だ」とみなし、こちらと距離を置くだけだ。
すでに何度も顔を合わせたことがありながら、まだ一度も話したことがない人も何人もいる。でもそういう相手も、「あの人は他人だ」とこちらとの距離を決めているのだろうと思う、無理に話しかけてくることはない。
といってそういう人とも、別に嫌い合っているわけではないから、そのうち気心が知れてくれば、自然に話せるようになるだろう。
京都の人はよく、府外の人から「冷たい」「裏がある」「いけず」などと言われたりする。でもそれは当たらないだろう。
他人の「自由」を尊重し、それに応じて自分の態度を決めるということなのだと思う。
「それでも愛想よくしていた方が好かれるよ。」
そうだよな。
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