「おおきに」と言いまくっているのである。

チェブ夫 京都について

 
京都へ来て4年が経つが、いまだに関西弁を話すと「おかしい」と言われる。

チェブ夫

でも最近は、かまわず「おおきに」と言いまくっているのである

 

 

京都へ来て4年がたち、少し関西弁が移ってきている。ぼくはどちらかといえば方言が移りやすいたちで、名古屋でも広島でも、2年住んで離れるころには、名古屋弁も広島弁も、けっこう話すようになっていた。

どちらも1年目くらいのとき、中途半端に言葉が移って関東弁とまぜこぜになったころには、「おかしい」「気持ち悪い」とよく言われた。

でも2年経ったころにはそうは言われないようになり、「お上手ですね」と言われたこともある。

ところが関西弁は、4年住んだ今になっても、いまだに「おかしい」と言われるのである。

 

まず「イントネーションがおかしい」のだそうだ。語尾や単語などは関西弁なのだけれど、イントネーションが関東弁のままだという。

聞くと関西弁は、イントネーションの違いにより、おなじことを言ったとしても正反対の意味になることもあるそうだ。

関東弁は、「自然なイントネーション」はあるにせよ、イントネーションの「ちがいを言い分ける」など、考えることはないだろう。

アフリカ人が、太鼓のたたき方によりその部族の「歴史」を語ったりすると聞くが、何となくそれにも似た、奥の深いところが関西弁にはある気がする。

 

さらに難しいのは「礼儀」のことばだ。「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかの礼儀については、大きくなってから教育されて覚えているから、どうしても今でも関東の流儀になってしまう。

別にそれでも悪いことはないだろうが、関西の礼儀作法は関東とずいぶんちがうところがあり、せっかくだからその流儀に従いたいとも思うわけである。

 

たとえばお店で何かを買って、関西の人はお店の人に「ありがとう」と礼を言う。これは関東にはないことだろう。

お店の人は物を売って、その対価としてお金を受け取るのだから、「それで十分だ」と関東では考える。わざわざお礼まで言う筋合いではないわけだ。

でも関西で、その関東流をつらぬくと、どうしてもお店の人にたいして無愛想な感じになる。

だからやはり、「関西流にお礼が言いたい」と思うわけで、語尾にアクセントがある関西弁の「ありがとう」は、だいぶ前から言えるようにはなっていた。

 

ところがここに、さらに難しい言葉がある。「おおきに」だ。

「おおきに」は関東には全くない言葉だから、そのニュアンスすら、ずいぶん長いこと分からなかった。

ようやく最近になり、関東弁でいうと「どうも」に近いようだと思うようになってきた。

お店を出るとき、関東なら「どうもー」と言うだろう。どうやらその感覚で、関西の人は「おおきに」と言うようなのだ。

 

それでそれを、関西の人に聞いてみた。すると関西では、「どうも」は「どうも」で使われて、それとは別に「おおきに」があると言う。

「どうも」は「おおきに」より無愛想な感じだそうで、お礼のときに言う言葉としては、「どうも」「おおきに」「ありがとう」の順にていねいになるそうだ。

 

ぼくはそれで、何となく合点がいった。

これまでお店を出るときに、関東流に「どうも」と言うと何だか無愛想な気がして、「どうもーーーー」と語尾をのばしたり、「どうも、ありがとう」と、さっき言ったのにまた「ありがとう」をつけたりしていたからだ。

すっきりとお店を出られない感じがしていたのだが、それが「おおきに」を使わなかったからだと分かったのだ。

 

そうなると、それを使ってみたくなる。それで最近、お店を出るとき「おおきに」と言うのだが、すると何だかいい感じだ。

「PiPi」でもマチコちゃんに「おおきに」と言うと、マチコちゃんも「おおきに」と返し、それで心置きなく店を出られる。たばこを買う売店でも、コンビニでも、「おおきに」を言いまくっているのである。

 

ただし「おおきに」を言うときは、「に」の最後をぼんやりのばし、やさしげにするようだ。

そうしないとまた無愛想になるのかと、今のところは思っている。

 

「関西は関東とちがうところがたくさんあるよね。」

チェブ夫

そうなんだよな。

 

 

 

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