きのうは「京子」でめしを食った。
京都はやっぱり、いいんですよね。
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「ちびニャン」は、きのうもやって来た。外でニャーニャー鳴く声がするから、サッシをすこし開けてみたら、すぐさま部屋に飛び込んでくる。
きのうはぼくが寝そべっている、ベッドの上を歩きまわる。ノラ猫だから、ベッドの上など歩いたことがないのだろう、物珍しそうにベッドカバーをつかんだり放したりしてみたり、、、
ペロペロ、唾液がべっとりと付くほどなめ回してみたりしている。
そのうちベッドの上で、すっかりくつろいでしまった。
完全に、飼い猫状態だ。
ぼくがソファーへ移動すると、追いかけてきて、近くに寝そべる。
そのうち眠りこけてしまったのだが、空を飛ぶ夢でもみているのか、両腕がまっすぐ伸びている。
ちびニャンは、結局小一時間、ぼくの部屋に滞在した。寒い外より、居心地がいいのだろう。
かわいい猫の仕草を見ているのは、ぼくも気が紛れるし、ずっといてほしいと思いはするが、うちはペット禁止だから、飼ってやることはできない。
そのうち腹が減ったみたいで、台所のゴミ袋を噛りだしたから、キャットフードをだしにして、外へ出て行ってもらった。
晩めしは、「京子」で食べることにした。
家で食べるめしに不満はないが、時々は、外で食べたくなるわけだ。
まずビール。
初めに出てきたものは、干したアジを焼いたのと、めかぶの酢の物。
それから、ふきのとうの入った鯛あら炊き。
鶏肉とネギの甘辛煮。
鶏肉は「親鶏」で、しっかりとした噛みごたえがあり、うまい。
それから油あげと小松菜の焼きうどん。
たぶん、鶏を焼いた脂で炒めたのだと思う。
きのうはたまたま、ぼくのブログを見て来てくれていた人が、2組いた。1組は九州から来た人たちで、わりとすぐに帰って行ったのだが、もう1組は京都市内に住んでいて、結局ずいぶん長話をした。
話をしたのは、「京都」のこと。ぼくのようなよそ者が、京都に長年住んでいる人とくらべて、京都についての理解が浅いのは言うまでもないのだが、新しい環境に適応しようと努力するから、その分、ずっと住んでいる人より見えることもある。
ぼくが京都で、いちばん印象的だと思うのは、一言でいえば、「ルールを外側に求めない」ということだ。「エスカレーター」の例が分かりやすいと思うのだが、東京なら、エスカレーターは「左側に立つ」と決まっている。大阪は、「右側」だ。日本全国、京都以外は、たぶんエスカレーターは左に立つか右に立つか、決まっているのではないだろうか。
ところが京都は、エスカレーターでどちらに立つかは、決まっていない。前の人が左に立てば、自分もそれに合わせて左に立ち、右に立てば、右に立つ。
京都以外の場所ならば、「イチイチ立つ場所が変わるのは面倒だから、どちらかにルールを決めよう」となるところではあるまいか。
ところが京都の人は、それを面倒と思う様子はない。まわりを見て、それに合わせて自分のふるまいを決めるのが、身に付いているように思える。
バーのカウンターなどでも、独特のふるまい方がある。東京は、もちろん店によって差はあるが、極端な言い方をすれば、「隣の人に勝手に話しかけてはいけない」のだ。バーテンダーが「この人たちは話していい」と判断し、きちんと互いを紹介して橋渡ししてくれて初めて、話すことが「マナー」である。
逆に大阪では、これはぼく自身が経験したことではなく、東京の流儀をよく知っている友人に聞いたのだが、「隣の人と話すことがマナー」だそうだ。隣の人が話しかけてきたときに、大阪流にボケやツッコミを入れられないと、「なんだ、あいつは」となるとのこと。
ところが京都の流儀は、やはりこのどちらでもない。「空気」を読まないといけないのだ。カウンターの場の空気を読み、「この人とは話してもいい」と自分が判断すれば話すし、そうでなければ話さない、ということになる。
ぼくはこの「空気」の存在に、気付くまでに2年かかった。気付くまでは、バーでどのようにふるまえばいいのかが全く分からなかったのだが、気付いてからは、「ただ自然にしていればいい」ということが分かった。
バーのカウンターでは、常連のお客さんは、話さなくても新参者であるこちらを見ている。何度か通いつづけるうち、こちらが悪者ではないことが分かってくると、すこしずつ乾杯をしてくれたり、話してくれたりするようになる。
ただし京都では、相手との距離を縮めるためにこうして時間がかかる分、いったん距離が縮まると、その関係は長くつづく。東京などなら、たとえバーで親しげに話ができたとしても、その場限りのつき合いで終わってしまい、次回に会ったら、また「他人」から始めないといけないのだが、京都なら、親しくなれば、常連さんのコミュニティに「仲間入り」をさせてもらえる。
ところでその京都で、「空気が読めない人はどうなるのか」と思うかもしれない。もちろん、ただ空気が読めなくて、まごついているだけなら問題ないが、空気を読まず、傍若無人なふるまいをする人だっているはずだ。
そういう場合、京都では「お断り」をされることになる。京都のバーには、「マナー」のように外側で決められたものはないのだが、この「お断り」を駆使することで、店の雰囲気を健全に保つのだろう。
ただし京都のこのやり方は、「同調圧力」とは、またちがう。空気を読めない新参者は、圧力をかけられるのではなく、逆に「距離を置かれる」のだ。そうすると、自分で「何が悪いのか」を考えることになる。
そうして新参者が考える様子を、京都の人はジッと見ている。考えた結果、新参者が、京都の人が思っていたこととは違うけれど、「それなりにいい」と思えることを見つけたとするだろう。
すると京都の人は、それを「認める」のではないかと思う。
京都では、ただ古いものが保たれているばかりでなく、たとえばパン屋の人口あたりの件数が全国で一番多かったり、ラーメン屋でも他県とくらべても味の種類が多かったり、さらには京都大学などは、ノーベル賞の獲得数が一番だったりするわけだ。
京都の人は、新参者に圧力を掛けるのではなく、あくまで「自主性」を求めるのであり、そのことが、京都が古いものを保ちながらも、同時に新しいものを生み出していく原動力になっているのではないかとぼくは思う。
こうした京都のやり方は、日本が古くから持っている、都市生活のあり方だろう。ぼくにとっては、その中にいることがとても居心地がいいわけで、これから日本が進むべき方向を考える上でも、参考になることは多いのではないかと思う。
きのうは、そんな話を延々としていたら、深夜0時をとうに過ぎてしまった。話し相手の2人はタクシーで帰って行き、ぼくも家に帰ってそのまま寝た。
その土地に住んでみないと、分からないことはある。
ぼくはこうして京都に住み、京都の流儀を学ぶことに、とても魅力を感じるのだ。
「嫌われないようにしなくちゃね。」
ほんとにな。
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