きのうは、ちょっとうれしいことがあった。
ささやかな祝杯を上げるのは、やはり京都・大宮の飲み屋なんですよね。
吹けば飛ぶような自由業をしていると、「予定通りに金がはいらない」など日常茶飯事となるわけで、ところがぼくの場合、貯金もせず、持ち金はつねに使い切ることにしている(なっている)から、金がはいらない度にあわてることになるわけだ。
いやもちろん、貯金はした方がいいのはわかっている。
しかし人間、何でも「した方がいいこと」をできるわけではないのだから、これは神様にも、あきらめてもらうしかないだろう。
さらにぼくの場合、持ち金以上に金を使ってしまうこともすくなくない。
これまでは、それで何とかなってきているから、
「これからも何とかなる」
と、甘くみているわけだが、まあ人間、人間におこること以上のことはおこらないわけだから、もの事を、そうそう怖がることもないのである。
といっても、金のことについて、けっこう頑張るときもある。
いや、仕事はあまり頑張らないのだけれど、たとえば、
「担当者の事務手続きがおくれたため、先方の経理のシメ日の都合で、入金が1ヶ月おくれる」
などということになった場合、相手はそれで困らなくても、こちらは完全に死活問題となるわけだから、それは頑張らざるを得ない。
今回もそういうことがあり、一時は、
「経理がどうしても首をタテにふらない」
と、担当者はあきらめの報せをよこした。
しかしこちらは、あきらめるわけにはいかないから、さらに交渉を続けるわけで、一週間以上にもおよぶ交渉の末、なんとめでたく、きのう、
「あす入金になる」
との報せがはいった。
かなりの達成感。
契約上の問題を指摘することで、相手の会社を「納得」させた上でのことだったから、我ながら「よくやった」とおもう。
そうなれば、やはり、
「祝杯を上げなければ」
となるわけだ。
もちろん考え方として、
「祝杯は、きちんと金がはいってから」
というのが「普通」なのは知っている。
しかし金は、はいったらはいったで、あれこれ支払いをしないといけないわけで、やはり祝杯は、そうして悲しくなる前がいいだろう。
というわけで、きのうは京都・大宮へのみに出かけた。
やはり祝杯は、大宮で上げるのである。
まず立ちのみ「てら」で、かるく腹ごしらえ。
たのむのは完全にいつものもので、スパサラ、
鶏天おろしポン酢、
あじ天。
常連のお客さんとも、すこし話をする。
てらは、一人でくるお客さんが多いから、こちらも一人でも、話しかければだいたいすぐ、あれやこれやと話になる。
そして、酒房「京子」。
財布にはいっていたのは3千円ポッキリだから、
「それでお願いします」
としたのだが、女将はいろいろ出してくれた。
あぶりイカ天のおろしポン酢。
京都では、さつま揚げを「天ぷら」という。
スペアリブと大根の煮物。
トマトがはいり、やや洋風の味付。
煮魚。
鍋焼きうどん。
女将には、今回の件をくわしく報告。
親身に聞いてくれるから、ありがたい。
それからしばらく、テレビ鑑賞。
ほとんど、「家」にいるようなものだ。
女将の愚痴を聞いたり、ぼくも近況を報告したりするうちに、あっという間に、3時間ほどがたった。
家の近所に、こういう店があるのはありがたいことである。
一人で暮らす者にとっては、家そのものの造りなどより、「近所にどういう飲み屋があるか」が大事になるのではないだろうか。
祝杯はめでたく終了、家に帰って歯をみがく。
歯みがきは、「オエッ」となるから大嫌いだが、しないわけにはいかないから、頑張ってていねいにやっている。
人生、頑張らないといけないことは多々あるが、できれば早く、神様に、頑張らなくてもいい身分にしてもらいたいものだ。
「そう都合よくはいかないよ。」
そうだよな。
◎関連記事
飲み屋は行けば長くなるのである。(酒房京子、Kaju、スピナーズ)
飲み屋は「はしご」するとまた楽しめるのである。(四条大宮/スピナーズ、てら、酒房京子)
一人暮らしはシェアハウスなどでなく、京都大宮のもっと安いマンションに住み、浮いたお金を飲み屋で飲むのに使ったらいいのである。