酒粕がまだ一回分、冷蔵庫にはいっていたから、きのうは豚の粕汁を食べ納めした。
これをアテに酒を飲みながら、「料理は命を活かすことだ」とあらためて思ったのである。
ぼくは食べものに気を使わない人は男女を問わず好きではなく、毎日牛丼だのハンバーガーだのコンビニ弁当だのしか食べない人は、もう人間とすらおもえない。
時間がない、カネがない、色々理由はあるとおもうが、「食」は「生きる」ことの根本なのだから、そういう人は、自分の命を粗末にあつかっているだろう。
自炊をすれば、たとえば牛丼を食べる300円で、牛肉と米を買うことができる。
それで自分で牛丼を作ってみるのは、どこの誰が、どんな風に作ったかもわからない牛丼屋の牛丼を食べることとは全くちがうことである。
命を粗末にあつかう人が何を言っても、ぼくは信用しないことにしている。
きのうツイッターを見ていたら、
「今までアサリだの白魚だの、まだ生きているものを料理するのが残酷に思えて抵抗があったが、『食べる』とは他の命をいただくことだと思い至り、感謝しつつ存分に味わって食べるようになった」
という趣旨の投稿が流れてきた。
これについて、ぼくは二つのことを思った。
まずは「当たり前のことに一歩近づけてよかったね」ということだ。
「生きているものを料理するのに抵抗があった」ということ自体がかなりの低レベルだと思うのだが、料理できるようになったのなら、それは「普通になった」ということだろう。
「屠殺の現場を見て以来、肉が食べられなくなった」などという話は時々聞くことがある。
手塩にかけて育てた家畜が殺されるのを見ることは、「残酷」といえばいえることだろうけれど、それが「生きる」ことなのだから仕方がない。
ただぼくは、ここに「感謝」などという礼儀作法を持ちこむのが気に食わない。
生き物を食べることに実はまだ抵抗があり、それを礼儀作法で紛らわせているように感じるからだ。
ぼくは例えばアサリが、砂抜きをするため塩水にひたすと、口を延ばしてピューピューと水を吐くのを「かわいい」と思ってながめる。
していたフタをさっと取ると、口をシュッと引っ込めるところなど、アサリとちょっとしたコミュニケーションを取っているような気すらする。
でもぼくはそのことと、アサリを煮て殺してしまうこととは全く矛盾しない。
「おいしそう」と思うだけである。
アサリの冥福を祈り、その死をもって自分が生きることに感謝するなどという気持ちは、これっぽっちも湧いてこない。
むしろ「かわいい」と「おいしい」は、本来表裏一体のものなのではないだろうか。
赤ちゃんなどのプニャプニャとした腿や腕に「食べてしまいたい」と衝動を感じるのは、ぼく一人ではないだろう。
もちろん人間の赤ちゃんを食べないことは、礼儀である。
でもこのことは、「愛おしむ」ことと「食べる」ことが密接につながっていることを示しているのではないかと思う。
ぼくは他の生き物を殺して料理し、それを食べることは、「自然を愛おしむ」ことだろうと思うのだ。
実際魚にしても、肉にしても野菜にしても、生き物にはそれぞれの味がある。
味わうことでその個性を知り、驚いたり感心したりする。
ぼくはアサリやイワシ、豚肉や菜の花を「愛している」とつくづく思う。
動物だって同じだろう。
クジラがイワシを食べるとして、やはりクジラも、イワシを愛しているのではないかと思う。
それを「生存競争」「弱肉強食」などと捉えるから、「残酷」などといういらぬ感情が出てくるのではないだろうか。
「食」を「愛するがゆえの行為」と素直にとれば、生き物どうしが食べ、食べられする様は、「美しい」とすら言えることだ。
さらに人間だけは、他の動物とは異なり、「料理」をする。
料理する際には、食材どうしの組み合わせが重要になる。
食材にはそれぞれに個性があり、たとえばブリと大根とか、真鱈の子とフキとか、相性が抜群のものがある。
食材をうまく組み合わせ、それぞれの個性が活きるようにしていくことが、料理の醍醐味ともいえることだろう。
でもここで、ブリと大根にしても、真鱈とフキにしても、お互いは縁もゆかりもない者どうしなわけだ。
海に泳ぐブリと野に生える大根とが、いささかでも関係がありそうには思えない。
そうすると、それらの個性を感じとり、それぞれを活かすことは人間だけができることになる。
料理とは、まさにそれぞれの「命を活かす」ことだと思うのである。
きのうはそんなことをぼんやりと考えながら酒を飲んだのだが、アテは「豚の粕汁」だった。
酒粕があと一回分、まだ冷蔵庫にはいっていたから、食べ納めをすることにしたのである。
粕汁は色々作り方もあることだろうが、一つの代表的なやり方は、「まず吸物のだしを作り、そこに酒粕をいれる」ことになる。
うすくち醤油で味をつけるわけだが、これを「西京みそを使うとうまい」という話を前から聞いていて、今回はそれでやってみることにした。
3杯分、3カップ半の水にだし昆布の切れっ端、ミニパック6袋分くらいの削りぶしをいれ、強火にかけて煮立ったら弱火にし、アクをとりながら5分煮る。
ザルで濾した3カップのだしに、西京みそ大さじ3、あとは塩で味つけする。
きのうは里芋をいれたから、皮をむいて1センチ幅くらいに輪切りにしたのをまず2~3分煮て、そのあと短冊にした大根、ニンジン、それに油あげを5分ほど煮る。
大根とニンジンがやわらかくなり始めたころ、あらかじめだしで溶きのばしておいた握りこぶし大の酒粕をいれ、2~3分、酒粕が溶けるまで煮る。
酒粕が溶けたら豚コマ肉をいれる。
豚コマ肉の色が変わったら、煮すぎて固くならないうちに火を止める。
青ねぎをふって食べる。
たしかに白みそを使うと、しょうゆと比べてコクが増し、「こってり」とするのである。
きのうはあとは、ポパイ炒め。
オリーブオイルでほうれん草を炒め、砂糖とうすくち醤油少々で味付けしたら、ちりめんじゃこを加えた溶き卵をそそいで炒め上げる。
新子おろし。
新子はしらすとはまた違う、濃厚な味がする。
長芋千切り。
削りぶしにわさび醤油。
すぐき。
すぐきもそろそろ、シーズンが終りとなる。
酒はぬる燗。
きのうもこれは2合だが、その前に焼酎を飲みすぎてヘベレケになっている。
「おっさんはぼくを食べたいの?」
食べやしないよ。
◎関連記事
コメント
こんにちは。僕は豚や牛を食べますが、実際に屠殺現場に居合わせたら食べれなくなるかもしれません。
子犬から育てた犬を食べる為に自分の手で殺せるでしょうか?僕にはできません(そもそも犬を食べませんが。)
ですが子供の頃食べる為に鯉を飼って食べたときは何とも思いませんでしたし、僕自身魚屋で働いていた頃、魚が可哀想とは思ったことすらありませんでした。
結局の所命に対しての考え方というのは人それぞれであってどれも間違いではないと言えるのではないかと僕は思います。
それぞれの価値観のもと命を粗末にしない。食べ物を無駄にしない。豚や牛、鶏を頂く時には育ててくれた家畜業の方々へ感謝を込めていただきます。
食に関する命の在り方は永遠に答えのでないテーマだと思います。
だからこそ料理は奥が深く料理人の人柄、仕事に対する信念が見えない隠し味になり人を惹きつけていると僕は感じます。長々とすいません。
魚やアサリが絶叫することができれば活魚をさばいたり、アサリを生きたまま酒むしにするのは大変かもしれませんね。
弱肉強食だと思いますよ。
イワシもアサリも、牛や豚も人間より強ければ
いくら「愛してる」と言っても食べさせてはくれないと思いますよ。
「ふむ」と思わされる面白い考察であるとともに、共感させられる部分を多々感じました。
可愛い羊や豚を見るとき、その内側に美味しそうな肉が見えるような感覚。
妙に高飛車な動物愛護家って生きること=食べることを理解しているのかな?と思わされることもありますよねえ。