煮魚の作り方はレシピになりにくいのである。

二日目のブリ大根 ブリ

 
昨日は二日目の、味がしみたブリ大根を肴にした。

二日目のブリ大根

これで酒を飲みながら、「煮魚はレシピになりにくい」と改めて思ったのである。

 
二日目のブリ大根がうまいのは、言うまでもないのである。

二日目のブリ大根

煮物は煮汁が冷えていくあいだに味がしみていく。

温めなおし、もう一度冷ましたりすると、さらに味はしみるわけだ。

二日目のブリ大根

煮え立ての、勢いのあるのを食べるのもうまいけれど、やはり煮物は鍋にいれたまま、二日目、三日目の味がしみたのを食べ続けるのが、一つの醍醐味なのである。

 

昨日あと作ったのは、春菊の吸物。

春菊の吸物

青菜の吸物は、ぼくは京都へ来てはじめて食べたのだが、「菜っぱ汁」と呼ばれる京都の家庭料理で、これがしみじみうまいのだ。

 

だしはほんだしでもいいが、自分で取ればもちろんうまい。

春菊の吸物 作り方

2カップ半の水と5センチ角くらいのだし昆布、かつお節のミニパック4袋を鍋にいれて中火にかけ、煮立ったら弱火にして、アクを取りながら5分ほど煮出してザルで濾す。

 

このだしに、うすくち醤油大さじ2、みりん小さじ1をいれ、まず熱湯をかけて油ぬきし、細く刻んだ油あげと、ざく切りにした春菊の茎を煮る。

春菊の吸物 作り方

つづいて石づきを落としてバラしたしめじを煮、最後に春菊の葉をいれてひと煮立ちさせたら火を止める。

春菊と水菜の場合は、こうして下ゆでしないでそのまま煮てしまっていい。

でも小松菜やほうれん草は、さっと下ゆでし、水で冷やしてよく絞ったのを温めるくらいにするのである。

 

それからもやしの酢の物。

もやしの酢の物

一つまみの塩を入れた水でサッとゆで、水で冷やしてよく絞ったもやしと薄く切ったちくわを、砂糖小さじ1、酢大さじ1、塩ほんの少々で和える。

 

わさび醤油の冷奴。

わさび醤油の冷奴

 

すぐき。

すぐき

 
 

酒は昨日もぬる燗である。

酒は昨日もぬる燗である

これを飲みながら、ぼくは

「煮魚はレシピになりにくい」

と改めて思ったのである。

 

さて「煮魚」なのだが、ぼくがそうであったように、「煮魚はむずかしそう」と何となく思うまま、手を出さずにいる人は、料理をけっこうする人の中にも少なからずいるのではないだろうか。

これは煮魚を作るやり方が、他の煮物と大きく異るところがあるからだろう。

多くの煮物は、日本であれ、外国のものであれ、「弱火でコトコト」煮る。

だから味をいれたら、そのときの味と煮終わるときの味は、そう大きくは変わらない。

 

ところがこれが、煮魚の場合は大きく違う。

煮魚は、強めの火にかけ、煮汁を煮詰めていくようにするから、煮はじめの味と煮終わるときの味とは全く異なることになる。

魚は多少の臭みがあるから、砂糖と醤油を多めにいれた、コッテリとした味が合う。

煮汁が多いままだと莫大な量の調味料が必要になってしまうから、煮詰めることでそれを節約するわけだ。

 

だから煮魚を作るには、「煮終わったときの味」を考えながら調味料を入れないといけないわけで、これが「むずかしい」と感じさせる一つの理由だと思う。

煮はじめで味見をしても、煮終わったときには全く違った味になっているからだ。

しかし調味料の量自体は、レシピで指定しておけば問題はない話だろう。

それがさらに、煮魚の場合には、「どうやって煮詰めるか」をレシピに書くのがとてもむずかしいのである。

 

煮魚を煮詰めるには、二つのことが関係する。

一つは「煮時間」で、多くの魚は10分くらいなのだが、魚によって決まった時間より煮過ぎてしまうと、魚はパサパサになってしまうから、煮時間を守ることは大切だ。

もう一つは「煮終わったときの煮汁の量」で、これがどのくらいかで煮汁の濃さが変わるから、それによって味も大きく変わってしまう。

煮魚を煮詰める際には、この煮時間と、煮終わったときの煮汁の量の二つが、どちらもちょうど良くなるように、火加減を調整することになる。

 

このやり方を、レシピに書くのがむずかしいのである。

「強めの中火で10分煮る」と言っても足りない。

「強めの中火で煮汁が3分の1になるまで煮る」でも違う。

煮魚を煮詰めるときに行われることを正確に書こうとすると、

「煮汁が10分で3分の1に煮詰まるよう、火加減をうまく調整する」

となってしまい、煮詰まる加減はレンジの火力や鍋の形などで違ってくることになるから、この「うまく」をそれ以上説明するのはむずかしいのだ。

 

「レシピ」とは、
「誰がやっても、その通りにやれば同じものができる」
ことが必要とされるだろう。

それが「レシピ」の定義であると言ってもいい。

そのレシピに、「うまく」などという言葉が入り込んでくるのは好ましいことではない。

こうして見てくると分かるとおり、煮魚の作り方は
「レシピになじまない」
のである。

 

「煮魚がむずかしい」と感じるのは、この「煮魚がレシピになじまない」ことが理由だろう。

今は多くの人がレシピを見て料理をするから、レシピになりにくいものを「むずかしい」と感じるのは仕方がないことである。

といって実は、それでは「煮魚は本当にむずかしいのか」といえば、そうとは限らない。

例えば誰もが難なくできる、「歩く」ことや「自転車に乗る」ことを、レシピに書き下そうとしてみれば、「レシピになじまない」と「むずかしい」は違うことがわかるだろう。

 

ぼくはここに、日本文化の特徴があるのではないかと思うのだ。

レシピのように「客観的」なものでは汲みつくせず、どうしても、「うまく」などという「主観的」な内容が入り込んでくることになる。

 

現代は、「客観性」を何より尊ぶ時代だろう。

それにたいして「主観性」を尊ぶ日本文化は、様々な欠点もありながらも、新しい時代を切り拓くことができるのではないかと思うのである。

 

「むずかしそうと思っても、やってみれば簡単だってことだよね。」

チェブラーシカのチェブ夫

そうなんだよ。

 

 

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