「谷」に飛びこむ勇気が必要なときもあるのである。(鶏と根菜のすまし汁)

鶏と根菜のすまし汁 鶏肉

 
きのうは温かいものが食べたかったから、「鶏と根菜のすまし汁」を作った。

鶏と根菜のすまし汁

これを肴に酒を飲みながら、「谷に飛びこむ勇気が必要なときもある」と、ぼくはあらためて思ったのである。

 
冬将軍が「ここ一番」とばかりに暴れまわる季節となり、温かいものが食べたくなるわけである。

鍋やおでんは温まるには定番のメニューとなるが、根菜のたっぷりと入った汁も、この時期食べたくなるものの一つだろう。

となるとまずは筆頭に上がるのは、京都なら豚の粕汁、一般には豚汁になると思うが、冷蔵庫に入っているのは鶏肉だった。

そこでこの鶏肉で、根菜のたっぷり入ったすまし汁を作ることにしたのである。

 

「根菜のたっぷり入ったすまし汁」といえば、「けんちん汁」が有名だ。

ぼくもそれに、今日になってから気付き、
「自分が作ったものはけんちん汁だったのか」
とネットで調べてみた。

するとけんちん汁には肉をいれず、根菜はゴマ油で炒めるのが定番のようだった。

ならば、
「鶏のけんちん汁」
とでも呼ぼうかとも思ったが、いやなに、ぼくは別にけんちん汁を作ったつもりではなかったのだし、料理の名前などどうだっていいのである。

 

すまし汁の味付けをしただしで材料を煮るだけの話だから、別にむずかしいことはないのだが、すまし汁にするならば味が濁ってしまわないよう、下ごしらえを丁寧めにしておくのがポイントといえばポイントだ。

ナイロンたわしで洗ったゴボウと皮をむいたレンコンは、乱切りにして10分くらい水にさらす。

コンニャクはスプーンで千切り、水でサッと下ゆでする。

里芋は皮をむいて1センチ厚さほどに切り、大根と、きのうはなかったから入れなかったがニンジンは、皮をつけたまま乱切りする。

 

鶏肉はひと口大に切り、熱湯で湯通しする。

油あげは熱湯をかけて油ぬきし、食べやすい大きさに切る。

だしは自分で取れば、化学調味料を使うより、はるかにうまい。

鶏と根菜のすまし汁 作り方

4杯分で、水4カップ半にだし昆布とかつお節のミニパック4袋をいれ、アクをとりながら弱火で5分ほど煮出してザルで濾す。

 

あとはだしに酒とうすくち醤油を大さじ4、みりん大さじ1で味をつけ、材料を全ていれる。

鶏と根菜のすまし汁 作り方

弱火でコトコト、野菜がやわらかくなるまで、20分くらい煮れば出来あがりという話である。

 

青ネギをたっぷりかけ、一味をふる。

鶏と根菜のすまし汁

素朴な味で、しみじみとうまいのである。

 

あとは水菜のおひたし。

水菜のおひたし

ざく切りにした水菜をサッと塩ゆでし、水に取ってよくしぼり、ちりめんじゃこと混ぜて味つけポン酢をかける。

 

冷奴。

冷奴

わさび醤油。

 

すぐき漬け。

すぐき漬け

すぐきは肝臓にもいいそうだ。

 

酒はぬる燗。

酒はぬる燗

きのうはこれを飲みながら、

「人生には『谷』に飛びこむ勇気が必要なときもある」

と、あらためて思ったのである。

 

というわけで「人生」なのだが、「人生山あれば谷あり」とはよく言ったもので、ぼくも人生は、「いいときもあれば、悪いときもある」というものだと思う。

これは周期的に繰り返すもののようで、ぼくは毎年冬場になると、ちょっとした試練に見舞われることになり、さらに10年ごとくらいで、けっこうな苦境が訪れることとなっている。

誰でも苦しみたくはないわけだが、これは「避けられない」ものであるとぼくは見ている。

自分が新たな地平に立つための、「産みの苦しみ」なのだろうと思うのだ。

 

この苦しさについては、ある程度の年をかさねた人なら誰でも知っていると思うから、あらためて繰り返すまでもないのだが、ひとことで言ってしまえば、
「先が見えない苦しさ」
だろう。

進んでも進んでも、希望の光が見えてこない。

ひどいときには、やること成すこと、全て裏目に出ることもある。

でもその苦しい時期は、いつか終わるものであり、気づいてみれば自分の前には、それまでには思いもよらなかったような道が開けているわけである。

 

さて苦しい時期に差しかかったとき、「やってはいけない」とぼくが思っていることは、
「苦しさから安易に逃れようとする」
ことだ。

これは全く不思議なもので、苦しさが極まってくるとかならず、
「こうすればラクになるのに・・・」
苦しさから逃れるための「名案」が、頭に閃くことになる。

これはおそらく、自己防衛のために「脳」がひねり出すものなのだろう。

しかし実のところ、これは「悪魔のささやき」のようなもので、それに素直に従ってしまうと、奈落の底へ転げ落ちることになるのである。

 

苦しいときは、脳が生み出す「理性」ではなく、「感性」に従うことが大切だとぼくは思う。

感性がささやく「声」は、
「自分はどうしたいのか」
を考えようとしたときに聞こえてくる。

理性は希望を照らしださず、「苦しさから逃れる」ことを提案するわけだから、感性に従おうとすると、真っ暗闇のなか、さらに一歩を踏み出さないといけないことになってくる。

まさに「谷」に飛びこむ勇気が、必要となってくるわけである。

 

でも感性とは、「動物」でもある人間の「本能」の働きではないだろうか。

歴史的には理性より、本能がはるかに先に生まれているわけだから、理性が答えを見出していない時点でも、本能は進むべき方向を察知しているということは、十分あり得るはずだと思うのである。

 

だからあと必要なのは、自分の本能を「信じる」ことだと思うのだ。

そうすれば、道はおのずと拓けると、ぼくは心底思うのである。

 

「おっさんみたいに本能の言うことばかりを聞くのもどうかと思うよ。」

チェブラーシカのチェブ夫

ほんとだな。

 

 

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失敗せずに成功すると、そのあと大失敗するのである。

アホにはアホなりの生き方があるのである。

「客観的な判断」が「冷静な判断」とはかぎらないのである。

人生は「信じる」ことによって拓けるのである。

すべては「想いを実現」するための「過程」なのである。
 

コメント

  1. TomTom より:

    鶏と根菜のすまし汁- 作ってみました。超旨かったです。

    ところで、久しぶりに拝見いたしましたが、リニューアルおめでとうございます。

    この頁と「一生ダラダラ」「やりたいようにやる」の頁拝見いたしましたが、内容が相当哲学的になった感を抱きました。
     「飲食業が「やりたいこと」であったとしても、さらにそれを「やりたいようにやる」こと」-これでうまくいくと思います。
    過去の高野さんのレシピいくつか作ってみましたが、どれも大変美味しかったです。

     「マーケティングやら広告宣伝、営業」等は別にいらないと思います。
    小生は東京住まいですが、マーケティング、広告宣伝、営業を全然せず結構はやっている店があります。美味しくて。
     店主が好きなものを好きなように作って出してくれます。なかには看板もメニューもない店もあります。もう、各種チェーン店の味は皆さん飽きたのではないでしょうか?。
     
     小生は各企業に、経理、戦略、マーケティング、広告宣伝、営業等を長年提案して著作もあり、殆どの提案は当ててきましたが、もうそんな時代ではなくなったような気がします。
     それこそ、昭和の文学青年が「教育要領」にあわせて必読文献を学んでいるときに「読みたいように読む」小林秀雄が登場したように。

     小生も今は、朝ビールと風呂と好きな焼酎を呑んで手料理などを作っておりますが、一方でヘーゲルや坂口安吾を読み返したり、フーコー、チョムスキーに手を染めたり、次に何をやるかを考えずに毎日ダラダラしています。

     久々に姉から連絡があり、小生は「いくつかの手がかりをが次々はずれ」、「奈落の谷底に転落しそうです」と、弱音を吐いたところ。
     恐るべき返事。「谷底に転落してもまた登ってくれば良いじゃない!」「そりゃあ、運の悪い人は死にますけど。」「貴方は運が良いから大丈夫!」。—他人事と思って、と考えたりしましたが、励まされたことも事実です。—-そう思うしかない。ここからだ。

     高野さんの店はきっと成功すると思います。
     東京にも「こだわりの食材」「究極のレシピ」「いやな客はいれない頑固店主」という店がありますが、概して旨くありません。ありきたりなのです。
     高野さんの店はきっとこうではないとおもいます。かといって「美味しい料理と、哲学や音楽を語れる店」でもないような気もします。
     それはなんでしょう?。もう高野様の心的な確信は確立されているのではないでしょうか?。
     
     高野さんの店は美味しいことは間違いありません。そのうえ、・・・・。なんでしょう、さりげないのでしょうね。
     もしかすると飲食業ではないのかもしれません。

     ただ、開店したら小生は必ず往きます。久々の京都へ。

     御多幸を祈ります。

     TomTom 拝

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