きのうは冷蔵庫にあった鶏肉と根菜で、「みそ煮込み」を作った。
これを肴に酒を飲みながら、ぼくは「客観的な判断が、冷静な判断とはかぎらない」と改めて思ったのである。
「みそ煮込み」は名古屋以外の全国では、「もつ煮込み」と同じ意味になっているのではないだろうか。
でもみそ煮込みは、実はもつ以外にも、「肉全般」に使うことができる手軽な料理法なのである。
肉は「しょうゆ」と今ひとつ相性がよくないとぼくは思う。
焼き魚にかけるように、豚の塩やきやトンカツにしょうゆだけをかけて食べても、あまりおいしくないだろう。
トンカツの場合なら、辛子じょうゆにして辛味をつけたり、ポン酢しょうゆにして酸味をつけるとおいしくなるが、肉をしょうゆ味で煮るなら「魚介だし」が必要になる。
かつお節などのだしを使うと、肉のうま味はしょうゆと合うようになるのである。
ところが「みそ」だと、べつに魚介だしを加えなくても、そのままでしょうゆに合う。
「豚汁」が豚肉料理の代表となっている所以である。
ただしこれが「煮込み」となると、普通のみそではうまくいかない。
八丁味噌が圧倒的にうまいのだ。
普通のみそは、煮込むと風味が飛んでしまう。
だから豚汁は、みそを最後に溶き入れることになる。
でも八丁味噌は、「煮込めば煮込むほどうまくなる」と言われる。
八丁味噌を普通のみそとは別に常備しておくのは、肉料理の選択肢を広げることになるのである。
きのうは鶏肉を八丁味噌で煮込んだのだが、いっしょに煮込む相手はやはり「根菜」がいいのである。
根菜は煮込むとうまいだけでなく、独特の苦味が肉のうまみを引きたてる。
コンニャクも、味を含ませるために入れたらいいに決まっている。
ただきのうはコンニャクがなかったので、かわりに「焼き麩」に味を含ませた。
みそは溶けにくいから、あらかじめ混ぜ合わせておく。
八丁味噌と、砂糖、酒、みりんをそれぞれ大さじ2、コク出しのおろしショウガを小さじ1、それに水を1.5カップである。
鍋にだし昆布を敷き、混ぜ合わせた調味料をいれて沸き立たせたら、具をいれる。
具はひと口大に切った鶏もも肉200グラム、3ミリ厚さくらいに切ったゴボウ2分の1本、5ミリ厚さほどに切った大根とニンジン、レンコンを3センチ長さほど、1センチ厚さくらいに切った里芋2個、それに水にひたしてよく絞った焼き麩だ。
落としブタをして、強めの中火で10分煮る。
アクは取らなくていいのである。
10分たったら落としブタを外し、上下を返しながら煮詰めていく。
煮汁がほぼ全てなくなったら出来あがりとなる。
器に盛り、たっぷりの青ねぎと、好みで一味か七味をふる。
煮汁をすべて煮詰めるから、味がしっかり絡みついているのである。
焼き麩も煮汁を吸いまくっている。
煮込みはやはり、味を吸うものを入れることがポイントだ。
あとは小松菜の煮びたし。
前の鶏肉の煮物の煮汁で、まず油あげを煮て、塩ゆでして水にとり、よく絞った小松菜をサッと温め、火を止めて味をふくませる。
とろろ昆布の吸物。
お椀にとろろ昆布とうすくち醤油をいれ、お湯を注いでかつお節と青ねぎをかける。
野菜の皮とだし殻のじゃこ炒め。
年末に大量にできたのを、きのうようやく食べ切った。
すぐき。
すぐきを食べられるだけでも、京都に来てよかったとぼくは思う。
酒はいつも通りぬる燗だ。
きのうはこれを飲みながら、
「『客観的な判断』と『冷静な判断』とはちがう」
と、ぼくは改めて思ったのである。
というわけで「客観的な判断」なのだが、これは今、「冷静な判断」の代名詞のように思われているところがあるだろう。
でも「客観的な判断」と「冷静な判断」とは、同じものではないのである。
「客観的」とは、「誰かの思いや考え、気持ちなどとは関係ない」という意味で、反対語は「主観的」だ。
「論理的に証明できる」という意味をふくみ、客観的なものの究極は、「数値で表されるもの」となる。
でも実は、客観的なものは、人間の思いや考えと離れ、独立にあるものではない。
むしろそれらに深く関わっているのである。
客観的なものの代表の一つに「お金」があるだろう。
企業はこれを数値化し、さまざまに判断していくことになる。
しかし「お金がいくらあるか」は、人間が数えないかぎり分からない。
お金を数える際、「自分が確信をもてる数え方」を体得しないと、何度数えても不安になるのはぼくが経験した通りである。
「機械に数えさせれば、人間が数える必要がない」と思うかもしれない。
でもそれにしたって同じである。
お金を数える機械は、「それがきちんとお金を数える」ということを、人間が信じられなければ使えない。
客観的に見えるものも、実は人間が「信じる」ことがあって初めて、知ることができるのだ。
「信じるからこそ知ることができる」のは、人間のすべての知識に言えることではないだろうか。
目で見たものを「知った」と思うためには、自分の視覚を信じている必要がある。
誰かが言ったことを「知った」と思うためには、その言った人が「信頼に足る」必要がある。
「客観的なもの」も同じであって、人間を離れてあるものなどでは「決してない」と思うのである。
さてそうなると、「客観的」をあまり信じてしまうと、大きく判断を誤ることがあるのではないかと思う。
ぼくはそれを、先日の「前借り事件」の際、しみじみと実感したのだ。
前借りを断られたことにより、すべての状況を思い合わせて考えても、生活資金は1月半ばで尽きてしまうはずだった。
だからあの時、もし「客観的に判断」すれば、ぼくはブログなどにうつつを抜かさず、「別にきちんとした仕事をするべきだ」ということになっただろう。
でも実際には、その後ちょっとして印税がすこし入った。
これはもちろん、何のことはない、出版社の編集者も印税の振りこみ予定をきちんと把握しておらず、したがってぼくも、それを知らなかったという話である。
だから神様の視点から見た、あの時の「真に客観的な状況」は、「金はいずれ入るから、何も心配することはない」だったわけだ。
でもそのことを、ぼくはあの時「決して知ることができなかった」わけである。
客観的に見えることでも、人間から離れてあるわけではない。
だから「その時知ることができないこともある」ことを、知っているのは大事だろう。
それを知った上でする判断が、「冷静な判断」だと思うのである。
客観的に見えているものだけに基づいて考えてしまうと、大事なことを見落としてしまうように思うのだ。
ぼくがあの時、「冷静である」と確信してくだした判断は、「金は何とかなる」だった。
そしてそれは、結果としては正しかった。
「客観的な根拠」などなくても、「冷静な判断」はできるのである。
「客観的であろう」とするより、「冷静であろう」とすることのほうが、よほど大事なのではないだろうか。
「そうやって甘く見てると、ほんとに大変なことになるよ。」
そうだよな、気を付けなくちゃな。
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コメント
はじめてのコメントです。壇先生絡みでたどり付き、1年くらい拝見しています。
客観的が客観的ではないという趣旨に同感しました。
結局自分の感性に従うしかない。ちょっと飛躍していますけど、日々決断を迫られる毎日の中、ちょっと気が楽になりました。
これからもよろしくお願いします。
広島ですよ。