ツイッターで長野の人から「キャベツは蒸すとうまい」と聞き、昨日は「蒸し鶏キャベツ」を作った。
これを肴に酒を飲みながら、「金は『何とかなる』と決めるのが大事なのだ」と改めて思い至ったのである。
野菜はおもに八百屋で買っているのだが、ぼくがよく行く八百屋は農家との直通ルートを持っていて、安いし新鮮だしだから、その直送品を買うことが多くなる。
今だったら大根やらカブやら、ほうれん草やら水菜やらが、直送品でいいのがある。
反面、直送品以外の野菜には、あまり手が伸びなくなる傾向がぼくの場合はこれまであり、それで最近、もやしやらレタスやらも買ってみて、使い方をあれこれ研究したりしているのだ。
ところが手が伸びなかったものの中でも特に「キャベツ」は、どうやって使ったらいいものやら、これまでイマイチよく分からなかったのである。
キャベツはまずは「せん切り」するのが王道だと思うけれども、ぼくはこのせん切りキャベツに合うような、味の濃いフライなどをほとんど食べることがないから、それだと使えないことになる。
ゆでたり煮たりする手もあるが、それは「白菜の方がうまい」というのがぼくの意見だ。
「炒める」手もあるけれど、青菜などと比べてそれほど優れているとも思えない。
「キャベツならでは」の使い方が今一つ見えなくて、これまでぼくは、キャベツに「敬して近寄らなかった」わけである。
ところが先日、ツイッターでこの話をしてみたら、心から「なるほど」と思える使い方を聞いたのだ。
「蒸したらおいしい」
と言うのである。
これは長野の人の意見で、長野はキャベツの名産地として知られている。
「広島のお好み焼きも『蒸す』わけですよね」
とさらに言うのを聞いたとき、ぼくは、
「まさにその通り」
とバシンと膝を打ったのだ。
広島に2年ほどいたとき、ぼくもお好み焼きはよく食べた。
広島のお好み焼きは、長野の人の言うとおり、豚肉の上に大量のキャベツをこんもりと盛り上げ、上に生地のフタをして、10分以上の時間をかけ、焼くのではなく「蒸す」のである。
蒸されて甘みが増したキャベツの味が、「広島のお好み焼きの味」だと言ってもいいくらいだろう。
そのため広島のお好み焼き屋の店主は、キャベツの仕入れに気をつかい、それぞれにこだわりを持っているのだ。
そういうわけで昨日は、この「キャベツの蒸し物」をすることにしたのだが、相棒は、冷凍してあった鶏肉を使うことにした。
長野の人は、「豚肉や桜えびやきのこなんかと・・・」と言っていたが、鶏肉でも悪い道理はないのである。
キャベツをどのくらいの大きさに切るかは、少しの時間考えた。
お好み焼きは、キャベツを細く切るわけだが、昨日はその方がうまみを感じやすいのではないかと考え、大きめにざく切りしてみることにした。
蒸し物は、蒸し器がなくても深めのフライパンがあればできる。
フライパンに2カップほどの水をいれ、中に深めの皿をおく。
この皿には、まずは3センチ角ほどのざく切りにしたキャベツ4分の1個分、その上にやはり3センチ角くらいにぶつ切りにした鶏もも肉1枚を入れておく。
鶏もも肉は、切る前に、表と裏にそれぞれ塩小さじ4分の1ほどをすり込んでおくようにする。
フライパンのフタをして火にかけて、沸騰したら弱めの中火くらいにする。
蒸し時間は「15分」である。
蒸し上がったら、青ねぎとポン酢しょうゆをかけて食べる。
甘みが増したやわらかなキャベツに、鶏のうま味がたっぷりとしみたのは、「たまらない」のである。
昨日あと食べたのは、一昨日の豚肉と野菜の吸物。
一昨日の廃材をつかい、野菜の皮とだし殻のじゃこ炒め。
皮やだし殻は細く刻んで、ゴマ油とちりめんじゃこでじっくり炒めて、醤油で味つけする。
それに梅かつおの冷奴。
豆腐の上に、梅肉とかつお節を包丁でよく叩いたものをのせる。
酒はぬる燗。
昨日はこれを飲みながら、
「金は『何とかなる』と決めるのが大事だ」
と、改めて思い至ったのである。
さて「金」についてなのだが、会社に勤めるのではなく、「志」を持って生きようとする場合、その志を途中であきらめることに繋がりやすい、大きな理由が3つある。
そのうち2つ、「運」と「才能」については、「最大」にしておくのがいいというのは以前に書いた。
努力してもなかなか結果が出ないとき、
「自分には運がないんじゃないか・・・」
「自分には才能がないんじゃないか・・・」
とは、考えてしまいがちなことである。
でも運はいつ開けるか、才能はいつ開花するかわからないものであり、「運がない」「才能がない」は、「錯覚の一種」ということだ。
それともう一つ、志をあきらめる理由になりやすいのが、「金」である。
志は、金に直結しないことが多いから、志に時間をつかうと、どうしても、金には苦労することになる。
しかしこれも、「何とかなる」ものなのである。
「金は何とかなる」と決めることで、道が拓けるとぼくは思う。
実際の話、ぼくもこれまで金は何とかなってきている。
贅沢はできないし、貯金もないが、何とか毎日、うまい酒を飲むことはできているのだ。
葬式に行く金がなく、「絶体絶命」と思ったこともあったが、そういう時でも、「ポコッ」と金が入ってきたこともある。
もちろん金策には苦労するが、志すことを続けるためなら、それも苦にはならないのである。
ところが今回、「最大のピンチ」と思えるような事態が訪れた。
いつも前借りをさせてもらっている広告会社の社長から、今回は前借りを断られたのである。
理由はぼくが11月から12月にかけ、ブログにあまりに時間を使いすぎたことで、前回の前借り分をまだちっとも消化できていなかったから、これは当然といえば当然すぎる話なのだ。
しかしぼくは、「また前借りをさせてもらえる」と甘く見ていたものだから、予定が狂ったことに呆然とし、すかさず今度は友人に、借金を申し込んだ。
「これは大丈夫だろう」と思っていたら、その借金も、断られた。
「お先まっ暗」とは、まさにこの事なのである。
そうなると、沸き上がってくるのは「恐怖心」だ。
恐怖心に駆られると、
「やはりぼくには、これを続けることは無理なんじゃないか・・・」
つい考えてしまうことになる。
しかし恐怖心に駆られた思考は、「理性的な判断ではない」のである。
理性的な判断に基づかないで行動しても、ロクなことにならないのは決まった話だ。
そこで今回、ぼくは改めて、
「金はなんとかなる。」
と思い定め、ジタバタしないことにした。
その途端、入金の可能性があることを思い出したり、支払いを遅らせられるものがあることに気づいたりして、先の見通しがつき始めているのである。
「金は何とかなる」のである。
一見、何の根拠もないようにも見えるこのことが、「最も理性的な考え方」だとぼくは思う。
「でも何とかならなかったらどうするのさ?」
まあそうなんだけどな。
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コメント
ほんまに金が欲しいですね。わたしも何とか暮らしてますが、いつ途絶えるか…
初めてコメントさしてもらいます。
僕も自営業です。
金は確かになんとかなると思えばなんとかなるというのが実感です。
ただ自分のやりたい事を貫く決意が大事やと思います。
時々楽しく拝見させて頂いています。
高野さんってどうしょうもなくいい加減(前借りを当たり前に依頼する)ではないかと思う。しかし今日のように状況を正直に前向きに述べることができる。
これが高野さんのアンバランスな魅力なのでしょうね。
いつも楽しみに拝見させて頂いてました。
ですが今回の高野さんの当然のようにお金の前借りや友人への借金などをする描写になんとなくショックを受けました…
高野さんの前向きではっきりとした主義主張など好きでしたが、その生き方は他人に甘えるうえで成り立っていたのでしょうか、いかがですか?
単純に質問させて頂きたいです。
よろしくお願いします。
人に甘えることは、何も悪いことではないですよ。
むしろもっと甘えたらいいと思います。
おはようございます。
自身の生き方に自信ある故に甘えられると、私は思います。その意味ではヒトに甘えるという行為は誰もができる事ではないと考えます。だから20代女性会社員氏のショックという表現に驚きました。私もできる事なら(お金以外も含めて)ヒトに甘えたいです。しかし見栄張りで良い面を見せようとして甘え下手になってしまいます。自分に自信が無いからだと考えています
高野さん、こんにちは。
本、再販されてるんですね。
早速買いますー。
私も、オカネは何とかなるとおもって生きてまーす。
そして、どうにかなってます笑