昨日は肉屋で豚肉を買ったので、それで「豚の肉吸い」をつくった。
これを肴に酒を飲みながら、ぼくは「『生活の論理』を見つけないといけない」と、改めて思ったのである。
肉を買うなら、「肉屋」がいいのである。
これが京都限定なのか、全国的に言えることなのかは分からないが、肉屋のほうが値段が安く、モノがいい。
「豚コマ肉」なら、近所のスーパーで、通常なら100グラム120~130円、特売でも98円という感じなのが、肉屋なら90円前後で売っている。
ぼくは最近、「切り落とし」という150円のを買っているが、これはほとんど「ロース」なのだ。
それで昨日は、この切り落としを買ってあり、初めは根菜と味噌煮込みにしようと思っていたのだけれど、考えているうちに、もう少しさっぱりしたものが食べたくなった。
肉を使ったさっぱりした食べ物といえば、「肉吸い」である。
肉吸いは大阪発祥で、要は「肉うどんのうどん抜き」だ。
もちろん関西では、「肉」は「牛肉」を意味するから、肉吸いも牛が基本だが、ぼくが行く立ち飲み屋では、豚や鶏も選べるようになっており、豚でもまったく問題はない。
元々が肉うどんだから、肉吸いも具は「肉と青ねぎ」が基本のようだが、ぼくが行く立ち飲み屋では、豆腐と卵が入っている。
今回はそちらを真似することにした。
味つけは、ネットで探すと「肉吸い元祖の店」のレシピがあったので、ほぼその通りにやってみた。
かつお節を多めにきかせ、うすくち醤油と砂糖で味つけするのである。
まずはだしを取る。
かつお節の量は、水1カップにたいして6グラム。
2.5グラム入りのミニパックなら、「まあ2袋でいい」という話である。
昨日2杯と、今日1杯食べることにし、煮詰まったりかつお節が吸い込んだりすることを考慮にいれ、水の量は3カップ半、かつお節のミニパック6袋とした。
中火で煮立て、弱火で5分くらい、アクを取りながら煮る。
ザルで濾し、かつお節はよく絞る。
ちなみにぼくは、レシピにはなかったけれど、だし昆布も入れた。
だし昆布が入ったほうが、どう考えてもうまいのだ。
3カップのだしができると思うので、そこにだし1カップにたいし、うすくと醤油大さじ1、砂糖小さじ5分の1を入れる。
3カップなら、うすくち醤油大さじ3、砂糖小さじ1弱という話である。
それから豚肉は湯通ししておく。
煮立てて火を止めた湯に、豚肉を入れてしゃぶしゃぶすると、あとでアクをとる手間が省けるわけだ。
煮汁に豚肉、ひと口大に切った豆腐、そして生卵を割り入れる。
弱火で2~3分煮て、卵が半熟加減になれば出来あがりである。
ぼくはこれを一回に食べる分だけ煮ることにした。
煮汁に入れたままにすると、卵が固くなると思ったからだ。
たっぷりの青ねぎと、七味をかける。
かつお節の風味が「ぷん」とする。
卵をどこで食べるかは、もちろん好み次第である。
ただ卵に箸をいれると煮汁に卵が混ざるので、しばらくは卵なしの煮汁を味わってみるのがおすすめではある。
あとは小松菜のおひたし。
サッと塩ゆでし、水にとってよく絞った小松菜に、ちりめんじゃこを混ぜ、味つけポン酢をかける。
このあいだの鶏の煮物。
これもこないだの、皮とだし殻のじゃこ炒め。
それにスグキは、この季節は欠かせないのである。
酒は昨日もぬる燗だ。
これを飲みながら、ぼくは、
「『生活の論理』を見つけないといけない」
と、改めて思ったのである。
というわけで「生活の論理」なのだが、これは「組織の論理」にたいし、ぼくが勝手につくった言葉である。
「組織の論理」がどのようなものかは、会社に勤める人はよく知っているだろうし、そうでなくても、イメージくらいはあると思う。
この「組織の論理」をどう受け取るかは、もちろんまずは人それぞれだろうけれど、世代によって特徴付けられるところもあるのではないかという気が、ぼくはする。
それは「刑事ドラマ」の設定に現れていると思うのだ。
ぼくよりも上の世代が夢中になった刑事ドラマは、『太陽にほえろ』である。
『太陽にほえろ』で組織の論理は、平田昭彦扮する「警察官僚」として描かれた。
平田昭彦が指図してくる無理難題を、「ボス」である石原裕次郎が押しとどめ、現場の刑事に自由にやらせる。
それによって事件が見事に解決するというのが、『太陽にほえろ』の基本パターンとなっている。
ここから読み取れるのは、組織の論理にたいして「現場の論理」が対立項として設けられていることだ。
そして組織が「悪」で、現場が「善」と色分けされているわけである。
それに対して、ぼくが「これがまさにぼくたちの世代感覚だ」と感じるのが、『踊る大捜査線』である。
これが出たころ、登場人物はぼくとほぼ同世代、30代前半で「組織の論理」に直面し始めていたぼくは、テレビシリーズを3回観て、3回とも最後に号泣するほどこれに共感したものだ。
『踊る大捜査線』で有名なのは、
「事件は会議室で起こっているんじゃない、現場で起こっているんだ」
という織田裕二のセリフだろう。
ここから読み取れるのは、やはり「組織が悪」で、「現場が善」という構図となる。
ただし『踊る大捜査線』が『太陽にほえろ』と違うのは、警察官僚のなかに「柳葉敏郎」がいることだ。
官僚である柳葉敏郎と、現場の刑事である織田裕二の「友情」をファンタジーとして描くことで、『踊る大捜査線』は、「組織を改革する希望」を抱かせるものとなっているのである。
さてぼくは今、テレビをまったく観なくなってしまったので、『踊る大捜査線』以降どのような刑事ドラマがあるのか全く知らない。
だから刑事ドラマから類推することはできないのだが、今の若い人たちは、『踊る大捜査線』とはずいぶん違った感覚なのではないだろうか。
大企業の多くが派遣社員を雇うことでコスト削減を行うなか、ぼくたちの世代のように、
「組織を改革しよう」
と希望を抱く人は少なくなっているだろう。
むしろ企業に正社員として雇われている人は、積極的に組織の論理を「肯定」し、そうでない人は「否定」するという形で、「二極化」しているのではないかと、ぼくは想像するのである。
そうなってきたときに、「組織の論理」の対立項は、すでに「現場の論理」ではないだろう。
「現場」はあくまで、末端とはいえ、組織の内部にあるものだ。
そうではなく、今求められていることは、組織の「外」に、対立項を設けることではないだろうか。
それが「生活の論理」とぼくが呼ぶところのものである。
「生活」は実際のところ、これまでほとんど論理化されてきていないと思う。
あまりに「漠然としているように見える」からで、「愛」「自由」「希望」「夢」などのキーワードで語られるくらいのものだったとぼくは思う。
しかしそこにこそ、これからの「フロンティア」があるように、ぼくには思えるのだ。
「組織の論理」と同じくらい、「生活の論理」が確固たるものとなったとき、世界は音を立てて変わっていくと思うのである。
「生活の論理」がどのようなものなのか、こうやって言っていながら、ぼくにもよくは分からない。
ただこれまでの科学が前提としていた「客観」ではなく、「主観」を前提としたものになるはずだと、思ってはいるのである。
「おっさんは言うことだけはデカイよね。」
ほんとだよな。
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コメント
スーパーに真鱈のあらありましたぁ!
美味しくご馳走さまでした(*^^*)♪
今年も楽しみにしてます!
全国歩きながらだと自炊は少なくなるのかなぁー
まだどうなるかは、わからないんですけどね。