昨日は魚屋でタラのあらを買ったから、それをちり鍋にした。
これを肴に酒を飲みながら、「人生は信じることによって拓ける」と、ぼくは改めて思ったのである。
お世話になっている魚屋の若大将は、まず「サバ」に目がなく、いいサバが入ると熱心に勧めてくるのだが、それに続いて熱が入るのが、「タラ」なのである。
棒ダラなどは、
「1年待っても、食べる価値がありますよね・・・」
と絶賛するし、あらでも養殖の鯛やブリより、
「タラがうまい」
と肩を持つ。
これは京都の人が昔から、サバとタラをよく食べてきたということと関係があるのだろう。
その影響で、ぼくも今では、タラには目がないわけである。
タラのあらは、スーパーなどでは手に入らないことも多いと思う。
生ダラは3枚におろして流通することが多いからで、もしお店で見かけたら、幸運をよろこび、すぐに手に取るようにするのがオススメだ。
みそ汁に入れてもうまいし、里芋とこってり煮付けてもいいのだが、やはりタラのあらがうまいのは「鍋」になる。
味にクセがないからどんな材料ともよく合うし、独特の弾力があって煮ても食べごたえが残るからで、昆布だしで煮て味つけポン酢で食べる「タラちり鍋」は、「ブリ大根」や「肉じゃが」、「豚汁」などと同じように、「定番メニュー」の一つといえる。
タラのあらは塩をもみ込み、しばらく置いてよく洗う。
塩をもみ込むところまでは、ぼくの場合は魚屋がやってくれている。
野菜は好きなのを何でも入れればいい。
昨日は白菜、白ねぎ、大根、ニンジン、しめじに豆腐である。
鍋にだし昆布をいれて水を張り、日本酒をたっぷり入れたら、まずタラや大根、ニンジン、白菜の茎など煮えにくいものから入れ、アクを取りながらしばらく煮る。
野菜がやわらかくなったところで白菜の葉や白ネギ、しめじ、豆腐などを入れ、サッと煮たら火を止める。
「火を止める」のは、それ以上煮たら煮過ぎるからだ。
だから鍋は一回に煮るのを、冷めないうちに食べ切れるくらいの量にするのが大きなポイントになってくる。
味つけポン酢と青ねぎ、一味をかけて食べる。
タラのあらは、眼と口のまわりのゼラチン質の、「ドロドロ」としたところがうまいのである。
鍋のときには煮ている間につまめるものを用意しておく。
昨日は芋棒の煮汁で炊いたおからとすぐき漬け。
酒はぬる燗。
昨日はこれを飲みながら、
「人生は『信じる』ことによって拓ける」
と、改めて思ったのである。
さて「信じる」なのだが、仕事などの場で「未来」に向かおうとするとき、よく使われるのは「目標」だろう。
目標は、「数値」などで示すことでなるべくハッキリしているのがよく、多くの場合、この目標を達成するのが「仕事をする」の意味になる。
目標を達成するためによくやるのが、達成をさまたげる「問題」を明らかにすることだ。
明らかにされた問題を客観的に分析し、解決策を見出すことで「改善」するわけである。
ただここで、「客観的」というところにミソがある。
「人間は物事を、どこまで客観的に知ることができるのか」
ということだ。
ぼくは昔、不動産屋でレジのバイトをしたことがあり、毎日お札を数えないといけなくなったことがある。
このお札の枚数が、初めのうちは何度やっても「確信が持てない」のである。
「間違えてはいけない」から、数えても不安になる。
2度数えても3度数えても、不安を消し去ることができない。
しかしそのうち、「自分が納得できる数え方」を体得することになった。
そのやり方で100までカウントすれば、「100万円」と確信できるようになり、それからは、不安に思わなくなったのである。
お札の枚数は、「客観的」に存在しているはずである。
でも「客観的」と言っているだけでは、人間はその物事と関わりを持つことができないのだ。
「自分なり」のやり方をし、それを「信じる」ことで、初めてそれは、自分のものになる。
このことは、お札にかぎらず、他の色々なところにもあるのではないだろうか。
話が「仕事」ではなく、「人生」となってくると、「客観性」はさらに危うくなってくるように、ぼくには思える。
「人生の目標」は、多くの人にとって、数値で示せるようなハッキリとしたものではないだろう。
「充実した人生を送りたい」「幸せになりたい」「生きた証を残したい」などなど、もっと漠然としているのではないだろうか。
目標がそのように漠然としたものならば、仕事のように、「問題を客観的に分析する」やり方はできないことになるわけだ。
しかしそれでも人間は、自分以外の物事と関わりを持っていかないといけない。
たとえば「日本」や「世界」の政治・経済情勢は、誰にとっても、人生に影響を与えることになるだろう。
日本や世界の政治・経済情勢を、「客観的」に分析することができるだろうか。
これはもちろん、政治学者、経済学者の仕事である。
しかし政治学者や経済学者は、人によって全くちがったことを言う。
景気は「よくなる」と言う学者もいれば、「悪くなる」と言う学者もいる。
そうであれば、素人にできるのは、「信じること」しかない。
「信頼に足る」と思える学者を選び、
「その人が言うことが、政治・経済情勢だ」
と思うしかないのである。
「世界は客観的に存在する」というは、現代の「科学」が前提としていることだ。
でもそれは、
「大いなる幻想」
ではないかと、ぼくは思うのだ。
そうではなく、人間は「信じること」によって世界とかかわる。
どんなことでも「信じること」によってのみ、人生は拓けていくと思うのである。
たしかに「変な人」を信じることで、人生のまわり道をしてしまうことはあると思う。
でもそれは、決して「無駄」ではないのではないだろうか。
「ぼくはおっさんを信じるよ。」
そうかい、ありがとな。
◎関連記事
コメント
鱈のあらは味噌ベースにして酒粕入れ、最後に岩海苔入れれば、どんがら汁になるのだ。酒田の冬の風物詩。あったまるよ。
あるのなら、白子と肝臓入れたら、またまた美味。