昨日の晩めしは鶏めしにした。
これを肴に酒を飲みながら、「食事はきちんと家でする」ことが、日本の未来を拓くことになると改めておもったのである。
これまでとくべつ「やりたいこと」が見当たらなかったぼくなのだが、今回めでたく秘密保護法案が成立することとなり、ようやくそれが見つかった。
「秘密保護法で逮捕される」ことである。
せっかく作った法律だから、政治家も早く使ってみたいだろうし、ぼくもどのように使われるのかを早く知りたい。
「安部首相の悪口をいえば逮捕されるのか」「カミソリくらいは送らないといけないのか」などなど、あれこれ頭を捻りはじめているのである。
とまあ、軽口はこのくらいにしておいて、政治家があのような法律を強行採決までして作りたがるのは、「国民を黙らせたい」からである。
国民は政治家にたいして問題点を指摘したり、批判したりする。
中には口汚く罵る者もいるだろう。
「それは失礼だ」というわけだとおもう。
問題など、本当はサッと解決してやればいいのである。
問題は、「問題」として認識された時点で、必ず解決できることが保証されている。全ての問題は、解決のための処方箋を書くことができるからである。
十分な権限さえあれば、その処方箋通りにやれば、問題は苦もなく解決されることになる。
そうすれば、関係者からよろこばれ、解決した人の株は大きく上がるのだ。
それをせずに、逆に問題を指摘する側を黙らせることをするのは、一つには「能力が足りない」ことは可能性として考えられる。
しかし問題を解決する能力など大したものは必要なく、よっぽどバカでない限り誰でもできるようなものだ。
それよりむしろ、「信念」が大きいのではないかという気がぼくはする。
「問題など指摘するから日本はダメになったのだ」と真剣に考えているのではないかとおもうのだ。
日本は美しい国である。
お互いの気持を気遣いながら、事を荒立てないようにして暮らしてきた。
それが戦後、アメリカなどの影響で、何でも率直にモノを言うようになってきた。
そのことが今、日本が没落している原因だ・・・、と思っているのではないかとおもうのである。
ぼくはそれは、全くわからないこともない。
たしかに西洋流の「合理主義」が、日本に害悪を及ぼしているところもあるとおもう。
合理主義は、「経済」などについては大きな威力を発揮する。
戦後日本が経済大国になったのは、合理主義のおかげだということは誰でも同意するだろう。
ただ合理主義では、どうしても解決できない問題もある。
たとえば「幸せ」だ。
「幸せとは何か」について、合理的に分析するとする。
そうすると合理主義は、「幸せになるための条件」を、これまで幸せになっている人を参考に挙げ連ねていくことになる。
たとえばそれは昔なら、「高学歴」「いい会社」「家」「車」・・・、などなどのことだった。
「それらを全て手に入れれば幸せになれる」というのが、合理主義の答えである。
しかしそれが「本当の幸せ」ではないことは、もう誰にもわかり切ったことである。
本当の幸せは、たとえば「食」についてなら、「時間をかけて思い浮かべたメニューをていねいに作る」ところにあるし、「恋愛」についてなら、「お互いの気持を時間をかけて配慮しあっていく」ところにある。
だから「これまであまりに合理主義的、物質的側面にばかり目が向きすぎていたから、これからはもっと日本的、精神的な側面に目を向けていきたい」という気持ちは、わからなくはない。
でもそれを、「仕事」に持ち込まれるのは困るのである。
政権の中枢は、「日本を美しい、幸せが感じられる国にするには、まず自分たちが美しく、幸せにならなければいけない」と思っているのではないかとぼくは見る。
それで首相官邸を美しく、幸せにするために、「見苦しい雑音を排除する」ことにしたのではないかとおもうのだ。
しかし「仕事」は、あくまで合理的に考えるべきものである。
政治家が、問題解決のために国民から権力を与えられているのは、言うまでもない話である。
幸せは、あくまで「生活」のなかで見出していくものである。
ぼくは今の日本の最大の問題は、「仕事と生活を混同してしまう」ところにあるとおもっている。
西洋の場合、それらはハッキリと切り分けられている。
「仕事は科学にのっとって合理的に、そして生活は、宗教にしたがい幸せに」となっているのである。
日本はこのうち前者だけを輸入して、それを後者にまで当てはめてしまった。
これが現代日本のまちがいの根源だとぼくはおもう。
といってぼくは、「キリスト教を輸入しろ」と言っているわけではない。
「仕事とは別の価値観で生活を見なおせ」と言っているのである。
そのために有効だとおもえる一つの方法は、生活の中心である「食」を見なおすことである。
「家できちんと手をかけたものを食べる」ことは、そういう意味で、「日本の未来を拓く」ことになると、ぼくは真剣におもうのである。
というわけで、「鶏めし」である。
ぶつ切りの鶏肉をのっけて炊くこの鶏めし、非常にうまいのだ。
材料は、鶏肉のほかにはゴボウと油揚げだから、それだけ見ると普通の炊き込みご飯と何も変わらない。
でもゴロゴロの大きな肉があるというのが、見た目的にも、食べ応え的にも、細切れの肉があるのと全く違うことになるのである。
味つけは、「削りぶしのだし」を使うのがもちろん王道なのだけれど、王道すぎるのもやや面白みに欠ける。
そこで鶏肉のうまみを活かすため、昆布だしだけを使い、塩味をベースに行くことにした。
しょうゆをあまり使うと、削りぶしのだしがなくては肉とはうまく合わなくなる。
削りぶしを使わないなら、しょうゆはあくまで隠し味程度にしておくことが、ポイントなのである。
さて鶏めしを作るのだが、これは大変簡単な話である。
材料を鍋にいれ、炊くだけだ。
まず鍋にだし昆布の切れっ端を敷き、研いでザルに15~30分上げておいた米1カップをいれる。
つづいて親指の先くらいのショウガの細切り、ささがきにして水にさらしたゴボウ2分の1本、細く刻んだ油揚げ2分の1枚をいれる。
表と裏にそれぞれ塩一つまみ(小さじ2分の1)ずつをすり込んだ鶏もも肉1枚(250グラム)をぶつ切りにしてのせ、水1カップ、酒大さじ1、しょうゆとみりん小さじ1、塩小さじ2分の1をいれる。
それだけいれたら、フタをして中火にかける。
鍋から勢いよく湯気が出てくるようになったら、弱火に落とし、10分炊く。
土鍋なら火を止めて10分蒸らし、金属の鍋なら火を弱火よりさらに小さくして5分蒸らして、さらに火を止めて5分蒸らす。
青ねぎと、好みで一味をふって食べる。
鶏のうまみがまっすぐに感じられるのがいいのである。
あとは、カブの赤だし。
だしに赤だし味噌を溶かし、厚く皮をむいたカブをやわらかくなるまで煮て、最後に小口切りにしたカブの茎をいれ、サッと煮る。
みょうがの冷奴。
タテに細く刻んだみょうがと、一味、味つけポン酢をかける。
カブの皮と葉、だし殻のキンピラ。
ゴマ油と輪切り唐辛子で炒め、酒とみりん、砂糖とうすくち醤油で味つけし、汁気がなくなるまでさらに炒める。
スグキとちくわ。
わさび醤油。
昨日はツイッターを相手に酒を飲んだ。
朝改めてツイッターを確認すると、あまりな妄言の数々で、呆然とするのである。
「カミソリなんて送らないでよ。」
うん、わかってるよ。
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コメント
たかのさん
その目標壮大過ぎですね!
逮捕されるためには、まずは公務員にならないといけませんね!
ぼくの活動が行政から「有害活動」「テロ」であると認められれば、公務員でなくても十分逮捕されるんですよ(^o^)/
おいしそうなごはんばかりです。
逮捕なんてされませんよん。
たしかにそうですね。
おうちごはんは幸せをもたらすようです。
うちのこどもたちは家庭で作ったごはんを好みます。
うちで食べるのがいちばんリラックスできるんだそうです。
買ってきたお惣菜は基本こどもたちにとっては「おやつ」だそうです^_^;
いつも楽しく拝読させていただいてます(・∀・)
たまに1合と1カップを混同してブログにレシピなどを掲載してる方がいますけど、兄さんのレシピでは1カップ200ccって認識でよろしくて?
面倒な質問ですみません。。。
ぼくのレシピでは、2カップは200ccですよ(^_^)
あ、すいません「1」カップ200ccです(^o^)
ありがとうございます!m(_ _)m