昨日は昼はいつものラーメン屋でビールを飲み、夜はこれもまたいつものバーと立ち飲み屋で酒を飲んだ。
それぞれで居心地のよい時間を過ごしながら、「お客にたいするアピールが全くない店」は貴重だとおもったのである。
ぼくがいつも行っているラーメン屋「新福菜館三条店」は、「客あしらい」については全くの皆無である。
常連さんも多いだろうとおもうのだが、お店の人がお客さんと、個人的な知り合いは別として、話しているのは見たことがない。
もちろん、「愛想が悪い」というのとは違う。
注文や、お勘定や、その他の挨拶や、などのことは、きちんとていねいに、十分感じよくやってくれる。
しかし普通なら、常連さんにたいする「サービス」を、お店も少しは考えたくなるのではないかとおもうのだ。
常連さんとちょっと親しげに話してみたり、注文していない小皿が一品出てきたりなどというのは、色々な店でよく経験することである。
そのようなことを、この店では一切しない。
唯一するのは、「常連さん」と認めたお客さんには、注文の際に「いっしょで?」と聞いてくれることだけだ。
それにしたって、ぼくは「いっしょで」と聞かれるようになるまで、毎週1回通いつづけ、1年半の時間がかかった。
だからこの店の客あしらいは、「最小限」だと言えるのではないかとおもうのである。
しかしこの店の場合は、それが「いいところ」なのだ。
余分なアピールが全くないから、居心地よく過ごすことができる。
店がまえも同様で、きちんと清潔にされてはいるが、「殺風景」というのがふさわしい。
でもその殺風景さが、妙に落ち着けるのである。
さらに「味」についても、この店はまったく同じだ。
余分なアピールがないのである。
たとえば餃子などなだら、昔はともかく、今ならニンニクやニラなど、パンチの利いたものをたっぷり入れるのが普通だろう。
しかしこの店の餃子は、万事控えめだ。
おそらく「ショウガとネギ」が中心なのではないかとおもうのだが、一般の餃子とくらべるとかなり大人しい味である。
その下手な主張がないところに、何ともいえない品のよさを感じるわけで、これが「老舗の味」ということなのだろう。
ラーメンも、余分な調味料が入っていないからだとおもう、大盛りを食べれば腹はもちろん膨れるが、もたれたり、気持ち悪くなったりなどは一切ない。
食べ終わって家に帰り、昨日も3時間、この上なく気持ちよい昼寝ができることになるのである。
昨日は夜は、四条大宮のいつも行くバー「スピナーズ」へ飲みに出かけた。
ここは今、ぼくの根城となっている店である。
スピナーズのマスターキム君の仕切りは、新福菜館三条店の「対極」ともいえるもので、客あしらいは「最大限」となっている。
でもそれはそれで、「またいい」というわけなのだ。
関西のバーでは、お客さん同士がカウンターで「自由に話す」のが基本だ。
関東では、オーソドックスな仕切りとしては、バーテンなりマスターなりが「橋渡し」をして初めて、お客さん同士が話すようになるわけで、関西はそれとは大きく異る。
だから関西では、バーテンやマスターは多くの場合、お客さんには「干渉しない」という立場をとることになるのだが、キム君はまったく逆だ。
お客さんに積極的に介入してくるのである。
ただしキム君の介入の仕方は、関東流の「橋渡し」とは全くちがう。
お客さん同士が自由に話すことは前提として、それがさらに楽しくなるように、あれこれ仕掛けてくるのである。
カウンターの全員で話せる話題を提供したり、さらにはゲーム的なことを提案することもある。
お客さんを座らせる場所までを考え、カウンターでの自由な会話がスムースに進むよう、あれこれ工夫するのである。
おかげでぼくはスピナーズで、飲み友達がたくさん出来た。
ひとりで暮らしている者にとり、これは大変ありがたいことである。
昨日もスピナーズへ行くと、カウンターに寺島進似の男性と、松下奈緒似の女性が、一席空けて座っていた。
ぼくは寺島進とも松下奈緒とも仲がいいから、
「真ん中に座らせてもらっていいですか?」
と聞く。
すると寺島進は、
「この席は有料らしいですよ」
と来る。
これは今考えれば「ネタふり」で、ここでぼくがボケれば誰かがつづいてツッコミをいれ、ひと笑いできたところなのだが、ぼくはまだそこまで頭が回らないのだ。
席にすわって飲み物を注文すると、今度は松下奈緒が、練りに練ったネタを披露する。
仕事の休憩の時タバコをくわえ、ライターのつもりでリップのスティックを手にしてしまった。
さらにそれで終わらず、火をつけようとリップのキャップを開け、くるくるとリップをねじり出し、タバコにつけようとまでしてしまったのだとか。
「『ちゃうやんけ!』と自分でツッコミいれたわよ」
という松下奈緒に、全員が大笑いするのだが、こういう場に同席できるのは得難いことだ。
ひとり暮らしをしているよそ者の自分が、関西の文化に直接触れられるのは、こういう機会だけである。
自分がネタを披露できる日が来るとはおもっていないけれど、こういうやり取りの中にいられるのは、本当にたのしく、居心地がいい。
最近ではキム君は、料理にも挑戦をはじめている。
昨日の「オリエンタルチキン」と「色々サラダ」も、キム君の創意工夫があふれてうまかった。
ひとしきり盛り上がり、寺島進と松下奈緒は帰っていった。
そこで「もう少し食べよう」と、スピナーズを出て向かった立ち飲み「てら」で、ぼくは改めて、
「常連になるのに必要なのは、通いつづけることだけだ」
とおもったのである。
というわけで「てら」なのだが、この店はぼくにとって、「大宮で一番むずかしい店」だった。
どのように居場所を見つけたらいいか、ずっとわからなかったのだ。
てらの大将「てらさん」も、お客さん同士のやり取りには「干渉しない」タイプなのだが、さらに干渉しないタイプのなかでも、「真性無干渉型」とでも呼びたくなる仕切りをする。
干渉しないタイプの店でも、「権限移譲型」と呼びたいところも多いのだ。
「権限移譲型」とは、お店のマスターはお客さんのやり取りに干渉しないが、仕切りを常連のお客さんに任せているように見えるお店だ。
だから例えば一見のお客さんがその店に行った時、常連のお客さんがその一見さんに、積極的に話しかけることになる。
これはおそらく常連のお客さんは、マスターとあうんの呼吸で「そうするものだ」となっているのだとおもう。
新規のお客さんをどう扱うかは、お店の経営者にとっては大きな課題だとおもうから、常連さんも、
「マスターから新規のお客さんと話す権限を移譲されている」
と思えないかぎり、そう簡単に新規のお客さんに話しかけられないとおもうのである。
ところがてらの場合には、一見さんが一人で行っても、常連さんは「全く」と言っていいほど話しかけてこない。
これはてらさんが、「常連さんに権限を移譲する」ための手続きを踏んでいないのだとぼくはおもう。
おそらくてらさんは、自分を「経営者」としてより、むしろ「料理人」として定義しているのではないかとぼくは想像している。
「お客あしらいは必要なく、自分の出した料理を『おいしい』と思う人だけ、来てくれればそれでいい」
と思っているのではないかとおもうのだ。
だからぼくは、ずい分前に、てらへは何度か行ったけれど、誰かと一緒ならともかく、一人だとどうやって居場所を見つけたらいいのか、どうしてもわからなかった。
ちょうどその頃、スピナーズが楽しくなり始めたこともあり、それからしばらく、てらへは行っていなかったのだ。
しかし最近、改めててらへ通うようになり、ぼくにも、
「通いつづければ居場所は見つかる」
ことが、だんだんとわかってきた。
通いつづけて顔なじみになっていけば、当たり前のことではあるが、常連さんとも自然に話せるようになるのである。
ただしお店に通いつづけるためには、「行きたいと思う何か」が必要になるわけだが、それはてらの場合、まさに「料理」だ。
てらさんの出す料理はどれもおいしく、しかも安い。
昨日もスパサラ、
アジフライ、
鶏天おろしポン酢、
ちくわ天、
を食べたが、いずれも非常にうまいのだ。
最近になって、てらさんの料理写真を撮るようになり、てらさんがさらに「盛り付け」までを、こだわっていることがわかってきた。
てらへは最低限、てらさんの出すものを食べ、酒を飲み、ひとことも話さずに店を出たとしても、行く価値がある・・・。
そう思えるようになると、てらで一人でいるのが何も苦でなくなった。
あと必要なのは、お店でお行儀よくしていることだけである。
今ではてらは、ぼくは話ができる人も増え、行くたびごとに居心地が良くなっている。
しかしこういう商売のやり方を、新福菜館のような老舗ならともかく、まだ10年にもならない若い店がするというのは、腹が座ったものだとおもう。
てらさんは「いかにも実直」という人だから、料理にたいする精進と努力を怠らないのだろう。
昨日は酎ハイを2杯か3杯、気持よく酔ってきたので家へ帰った。
ぼくがまたしても羽目をはずし過ぎたのは、言うまでもないのである。
「調子に乗らないようにしないとね。」
ほんとだな、気をつけるよ。
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