きのうはヘイト・カウンターの人達との飲み会が、大阪であった。飲み会に参加していつも思うのは、カウンターの人達が「爽やかだ」ということだ。
おれはあまり人付き合いがよい方ではなく、飲み屋でも、気に入らない人とは話さない。だいたい馴れ馴れしい奴が嫌いなわけで、性格的には「偏屈」だといえるのではないかと思っている。
馴れ馴れしいより嫌いなのは、「ぬし」のような奴である。
飲み屋は店主がいるからそういう奴がいることは少ないけれど、仲間内などの飲み会の場合だとぬしがいて、そいつの顔色をうかがったり、理不尽な要求に諾々と従ったりすることになるのも少なくない。
これは社会運動の場も例外ではなく、一度参加したある運動団体の飲み会で、とんでもないセクハラ野郎のぬしがいて、怒鳴りつけて帰ってきたこともある。
ところがカウンターの人達との飲み会で、そのような不愉快な思いをしたことは一度もないのだ。カウンターの飲み会にはかなりの回数参加しているけれど、ぬしがいるのは見たことがない。
皆が他人に気を使い、じつに爽やかなのである。
きのうは個人のお宅で、持ち寄りの納涼会だった。
10数名が集まって、終電ギリギリまで話をする。
これだけの人数が集まれば、おかしな人の一人や二人、いてもおかしくなさそうだ。年齢も20代から60代まで、在日と日本人、男性と女性、職業も様々で、幅広い層の人がいる。
しかしきのうも、見事におかしな人はいなかった。じつに気分よく、たくさんの人と話して帰宅した。
これが何故だろうと、いつも考える。
たぶん、カウンターの活動の性質によるのだろうと思っている。
ヘイト・カウンターは、「趣味の集まり」のようなものとは大きく違う。まずだいたい、差別が行われず、カウンターなどしないで済むのが一番であるわけで、カウンターはしたくてやるものではなく、仕方なくするものだ。
予定も、自分の都合では決められない。糞レイシスト(差別主義者)がヘイトスピーチをやるというから出かけるわけで、時には無告知のヘイトスピーチが行われ、それに慌てて対応することもある。
本来は、犯罪であるヘイトスピーチを規制すべき警察からも、法の不備から不当にカウンターが規制され、それをかいくぐったり、抗議したりもしないといけない。
ヘイトスピーチが一旦行われてしまえば、被差別者はそれによって傷を負うわけだから、カウンターは、その被害を「いかに最小限に抑えるか」を考えることしかできず、「勝利の達成感」などもない。
このようにカウンターは、自分の「我」によって活動する部分がとても少ない。
カウンターを長く続けてきた人ほど、我ではなく、理性や良心によって行動する作法を身につけるのではないだろうか。
さらには、カウンターが直面するのが「差別」であることも、カウンターの人達が理性的な行動をすることを助けているように思う。
マジョリティ(多数者)である日本人は、ほとんどの人が、人種差別されたことがない。マジョリティにとって、人種差別の非道さを自身の体験から理解することは難しく、理性によって、マイノリティ(少数者)の立場と気持ちを「察する」しかないのである。
物事を理解するのに多くの場合、自分の体験から出発し、それを理性で肉付け・理論付けしていくだろう。しかし差別については、その方法は通じないのだ。
この差別という問題の独特な性質が、カウンターの人達をして、他者への繊細な配慮をせしめているのではなかろうか。
いずれにせよ、カウンターの先輩と話すことは、その内容はもちろん、その作法も、おれにとってはとても勉強になるのである。
そのことが、おれがこうしてカウンターを続けている大きな理由ともなっている。
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