きのうの晩は、鯛ちり鍋。
鯛は、つくづく「ウマイ」っすよね。
鯛は、いちおうは春が旬だけれど年中おいしく食べられて、しかも「あら」なら半身で300円ほど、「バカか」とおもうくらい安い。
「お助け食材」であるのは疑いがないところだが、それだけでなく、やはり、ウマイ。
きのうも「ちり鍋」にしたのだけれど、つくづくウマくて、もう食べながら、夢見心地になるのである。
塩とほんのすこしの調味料だけで味付した鯛を、「おいしい」とおもえるのは、「日本人の特権」ともいえることだと、ぼくはおもう。
世界広しといえども、この味は、日本以外にはないのではないだろうか。
だいたい世界の料理は、まず「ニンニク」を使うことになっている。それにともない、ニンニクがよく合う「肉」を主体とするようになり、さらにこれを、「油」で炒めたり、焼いたりして、コッテリと仕上げる。
この料理法は、まあぼくは詳しくは知らないが、「中国」が起源なのではないだろうか。
それがシルクロードを通じてヨーロッパへ伝わり、世界の「グローバルスタンダード」になったもののようにおもわれる。
しかし日本は、このグローバルスタンダードに、意識的に背をむけてきているのである。
日本では、まず奈良時代に、肉食が禁止された。それから鎌倉時代には、ニンニクも禁止された。
さらに鉄器と強い火力をつかい、油で炒めたり焼いたりするのは、やはり鎌倉時代あたりから、中国で盛んにおこなわれるようになったらしいが、それも日本は、とうとう輸入しなかった。
そのころ日本が輸入したのは精進料理、中国の一部で流行り、その後廃れたようなのだが、中国の大勢とは正反対をむいている。
このように、日本は、グローバルスタンダードを意識的にとり入れないことにより、現在にいたる日本料理を成立させてきているだろう。
日本のこの、「あまのじゃくな体質」は、「欠点」ともいえることだとおもうけれども、こと料理については、それがプラスに働いていると、ぼくにはおもえる。
魚を塩だけつけて直火で焼いたり、煮て食べたりすることは、沿岸の地域なら、昔はどこでもされていたことだろう。ところが食材や料理法の発達で、いまではほとんど見られなくなったのではあるまいか。
ところが世界に背をむけてきた日本でだけ、まさに「ガラパゴス」のように、それが残されているのだろう。
「鯛の塩焼き」などは、現在でも、ごちそう料理の中心であるわけで、数千年前の料理がいまでも第一線にあることなど、日本だけで味わえる「幸せ」ではないのかと、ぼくにはおもえる。
ちり鍋も、基本は「水で煮るだけ」だから、おそらく起源は古いだろう。
鯛あらは安いのだし、この「日本人であることの幸せ」を、味わわない手はないのである。
ちり鍋に鯛をつかう場合には、いれる野菜も、あまり味がきついものをいれないのがポイントだ。きのうは白菜、それに豆腐とエノキ。
煮汁は水だけ、または水に酒をいれたものでも問題ないが、昆布だしを使えばよりうまいのは、いうまでもないことだ。
鍋に4カップの水をいれ、10センチくらいのだし昆布を、10~20分くらい、煮立てないようにしながら煮出す。
ここに酒大さじ3をいれれば、煮汁は完成。
鯛あらは、表裏に塩をふり、つよめの火でサッと焼く。
あとは白菜など野菜をいれ、、、
白菜が沈んだら、焼いた鯛あらをすこし煮る。
器によそい、味ぽん酢をチロッとかける。
これだけの簡単なものなのに、何一つ不足のない味になるから、鯛はほんとうにエライのである。
酒は、熱燗。
昔ながらの、素朴でありながら、豊かな味。
これはつい飲み過ぎてしまうのも、仕方がないことである。
「あまのじゃくは自分でしょ?」
そうだよな。
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