昨日はまた、豚肉がガッツリ食べたくなり、豚ネギ塩炒め丼を作った。
この時のご飯は、炊飯器でなく、鍋で炊くのがカッコイイのである。
今は「ご飯は炊飯器で炊くものだ」となっているところがあり、「ご飯は炊飯器でなければうまく炊けない」と思い込んでいる人も、少なくないのではないかとおもう。
また「炊けない」とまでは思っていなくても、「炊飯器で炊いたほうがラクだ」と思っている人は、かなりの数に上るのではないだろうか。
まず「ご飯は鍋で炊ける」のは、言うまでもない話である。
金属製の、スーパーで500円ほどで売っている安っちい片手鍋でも、炊飯器と変わらない味のご飯が炊ける。
土鍋を使えば、炊飯器で炊くより遥かにうまい。
また手間も、鍋で炊くのは途中で1~2回、火加減を変えるだけである。
だからそもそも、炊飯器などほとんど必要がないものだったと言えるのだが、それをなぜ、日本人がここまで炊飯器を使うようになったのかといえば、一言でいえば、「カッコよかったから」なのだとおもうのである。
家庭用の炊飯器が登場したのは、昭和30年のことである。
その少し前の日本は、まだ終戦の痛手から這い上がろうとしていた頃だっただろう。
かたや戦勝国のアメリカでは、テレビや洗濯機、冷蔵庫など、最先端の家電製品を家庭で使いこなしていた。
その頃の日本人にとって、それはどんなにきらびやかに映ったことだろう。
それで日本人は、ようやく日本で発売されるようになった家電製品に飛びついたのである。
実際それらの多くはたしかに便利だし、さらに家電製品を生産することは、日本の主要な産業の一つとなり、日本を経済的に押し上げるための原動力となった。
炊飯器も、それら家電製品の一つだったわけだ。
だから当時の日本人にとっては、必要であるかどうかなど考えるまでもなく、炊飯器は「当然買うもの」だったのではないかとおもう。
でも今は、もうそういう時代ではないだろう。
経済成長は終わりを告げ、淘汰の時代に入っている。
「何でも買えば、日本も自分も豊かになる」のではなく、本当に必要なものを見極め、いらないものは捨てることこそ重要になっている。
いらないものの筆頭は、ぼくは原子力発電所であるとおもうが、それは置いておくとして、家庭内で筆頭に上がるのが、炊飯器なのではないかとおもう。
家族の場合には、炊飯器の意義も、まだわからないこともないのだけれど、独り暮らしの場合には、炊飯器は圧倒的にいらないのである。
このあいだ、ぼくがいつも行く四条大宮のバー「スピナーズ」へ行った時、マスターのキム君がしてくれた話で、「とてもいいな」と思うのがあった。
「ぼくは『創作』がやりたいと思うんですが、『料理も創作だ』と最近思えるようになったんです。
そうすると料理するのが楽しくなって、最近は開店前に、賄いをあれこれ自分で作り、食べたりしているんですよ・・・」
ぼくは独り暮らしが料理をつづけるモチベーションは、まさにここにあるとおもう。
家族のために料理を作る専業主婦なら、料理は「仕事」としての側面をもつから、「義務」としてつづけていくことができる。
でも独り暮らしは、誰のためでもなく自分のために、料理をしないといけないのだから、絶対に仕事にはなり得ない。
独り暮らしは、「あれこれと料理するのが楽しい」とならないと、料理をつづけられないのであり、その「楽しさ」とは、キム君の言葉でいえば、「創作の楽しさ」ということなのだろう。
料理をそうして「創作」としてとらえた場合、炊飯器ほど邪魔なものはないのである。
「米」は日本人の主食だから、その料理法については、日本人が長い時間をかけて培ってきた奥深い世界がある。
炊飯器で米を炊くのは、その世界をひもといていく喜びを、丸ごと機械に売り渡してしまうことだ。
料理の楽しみを「食の楽しみ」に置き換えれば、炊飯器を使うのは、食事を流動食や点滴にしてしまうようなもので、これほどもったいないことはないのである。
今の時代、最新式の炊飯器など買って喜んでいることより、安い鍋で、火加減や水加減を試したりなどして米を炊くことのほうが、よほどカッコイイのではないだろうか。
「ぼくは鍋で米が炊けます」と言えば、まちがいなく女の子にモテるとおもう。
というわけで、米の炊き方なのだが、これが拍子抜けするくらい、簡単なのである。
米は炊飯器の場合とおなじように研ぎ、水加減が狂わぬよう、一旦ザルに上げ、水を切る。
1カップの米を炊くなら、水の量は1.2カップが標準だ。
鍋に米と水を入れ、フタをして、30分ほど浸したあと、中火にかける。
しばらくすると、鍋の水は沸騰し、さらに米の成分で粘り気を増して吹き上がり、フタのすき間から吹きこぼれてくる。
吹きこぼれてきた瞬間に、火加減を弱火にし、8分炊く。
8分たったら蒸らしに入るのだが、土鍋なら、ここで火を止めてしまっていいが、金属製の鍋の場合、すぐに火を止めると温度が下がりすぎ、蒸らしがうまくいかなくなる。
そこで弱火よりさらに弱い、消える寸前くらいの火加減にして、鍋を温めながら5分蒸らし、さらに火を止め5分蒸らす。
以上の分量や時間などは、標準的なやり方だ。
使う鍋によっても、多少変わってくるところがある。
水の量は、増やせば米がやわらかく炊けるし、減らせば米は固めに炊けることになる。
炊き時間をもう少しのばせば、オコゲができることになり、これはこれで、またうまい。
昨日は炊いたご飯の上に、「豚ネギ塩炒め」をのせてどんぶりにした。
ネギもニラと同様、豚肉と合わせると、疲れをとる効果があるそうだ。
それと豚肉の場合には、醤油との相性があまりよくない。
だから下手に醤油をつかってしまうより、塩味で味付けしたほうが、手軽でうまいことになる。
豚肉は、コマ肉で問題ない。昨日は200グラム使った。
ネギは丸々1本、青いところも含め、斜め切りにしておく。
フライパンにゴマ油と輪切り唐辛子それぞれ少々を入れて強火にかけ、まず豚肉、次にネギの青いところ、さらにネギの白いところを炒めていく。
酒大さじ2、おろしショウガ小さじ1を入れ、塩で味つけする。
塩の量は、ちょっと変わると味がまったく変わるから、味を見ながら慎重に入れていく。
塩加減に時間がかかるようだったら、もう火を止めてしまって問題ない。
炊きたてのご飯の上にのせ、捻りつぶしたゴマをふる。
これはやはり、ガツガツ食べるのである。
昨日はあとは、アサリの赤だしを作った。
八丁赤だし味噌の使い方について、ツイッターで質問があったのだが、これはまずは、貝の味噌汁に使うのが、定番のやり方なのである。
アサリは昨日は200グラムくらい、スーパーで売っているアサリは、もう砂抜きされているけれど、念のため海水くらいの濃さの塩水に1時間ほどでも浸しておけば、砂を噛むことはほとんどなくなる。
貝は砂抜きより、むしろそのあときちんと洗うことが重要で、洗い方が足りないと、生臭みが出ることになる。
両手で貝をすくい上げ、こすり合わせるようにして念入りに洗う。
鍋に5センチ角くらいのだし昆布と、2カップの水、洗ったアサリを入れて中火にかける。
煮立ってきたら、大さじ2くらいの酒を入れ、アクを取りながらアサリの殻がひらくのを待つ。
アサリの殻が全部ひらいたら火を止めて、赤だし味噌大さじ2くらいを、味を見ながら入れていく。
ふたたび火にかけてひと煮立ちさせ、お椀によそって青ねぎと一味をふる。
このやり方は、貝がしじみの場合でも、まったく同じようにできる。
しじみは肝機能をアップさせる働きがあり、酒飲みには大変おすすめなのである。
それからみょうがのポン酢醤油。
繊維にそってタテに細く切ったみょうがに、ポン酢醤油と一味をかける。
みょうがはペーパータオルで包んでビニール袋に入れ、冷蔵庫に入れておけば1ヶ月ほどでも持つから、常備しておくのはおすすめだ。
「おっさんは、鍋で炊いてもカッコよくないよ。」
若い男子限定だよな。
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コメント
震災時は10日程度停電だったので
鍋でご飯が炊けて良かったです。
カッコいいかはともかく、鍋でご飯
を炊く方法を知っていて損はありません。
それから、電気炊飯器で炊くよりずっと美味いと思いますね。
日本人が米を比較的手の掛からない便利な炊飯器で炊く風潮にあるのは経済成長の影響もありますが、そもそも戦前の竃炊きや土鍋炊きの時代から和食の様式として「メインのおかずとは別の火で別の行程として米を炊く」という和食独特(と言うかアジア圏独特)の文化がありますよね。
生米を魚や肉を煮ているスープに入れて一緒に炊き上げる西洋諸国の食文化とは「米そのもの」の在り方が根本的に違うという事。
お米を主食とするか否かという食文化の違い。
米に対する食的依存度合いの違いが米を炊く行為や用品の発展や浸透に大きく影響しているという点においては、米を炊く事自体の行為は炊飯器であろうと鍋であろうと竃であろうと正調和食の範疇である、と思います。
調理そのものを目的とするか、あくまで手段として機器を使うかという事についてはは並列に並べてどちらが勝る劣るという話ではないように思います。
が、タカノさんが提示される便利さが創作性を欠くという論もなるほどその通りだ、と思います。
今夜は久し振りに炊飯器のコンセントを抜いて片手鍋で米を炊いてみようと思います。
なるほどたしかに、囲炉裏があった時代から、かまどは別の場所にあり、米はそこで炊いていたんですもんね。
かなり「なるほど」と思いました。
土鍋ご飯!
確かに美味しいんですよね。
しかし、朝、米を炊くことが多いので、炊飯器のタイマー機能の便利さに妥協しています…汗
やっぱIHでは難しいでしょうか?
その場合はカセットコンロがいいのかしら・・・
IHで問題ないですよ。
お湯がきちんと沸騰する火力があれば、米は問題なく炊けます。
炊飯器が嫌いで持ってなかったからずっと鍋で炊いてた。
もともとあまり米は食わないんだがそれでもうまく炊けてた。微妙な炊き上がりの時のムラとかオコゲとか、そういう深みや渋みってのがこだわりだった。
別にカッコいいだなんて思って作っちゃいない。飯を食わない人間はいない。
火を使って食事を作る。炎を見ながら作る。熱さ冷たさ食感を感じながら自分のクチに運ぶものを自分で始末する。
便利になっちゃいけない。手に入れたものがインチキなものか誰しも思うはずだ。それが酒であれなんであり米であれ出来上がる過程なんだと拒絶するところは拒絶した。器を揃え、箸を揃え、食事をすることが大事なことになってゆく。
炊くたびに道具としての鍋も安っぽいものでは寂しいと思うようになった。痛んだら捨てるような気分でモノを使ってそれで炊き上がった米は一期一会の関係ほどには間合いが持てない。
ほどなく鍋は高いものに変わっていった。
三層、五層、ステンレス、土鍋。まな板、包丁、キッチンは戦場になり、仕事の終わった気分転換にまた別な戦場を味わうように立つようになった。
その鍋もある日変った。玄米を食うようになって旨く炊ける方法をまた探した。いまひとつこれだという炊き上がりにならなかったから。
それでわざわざ玄米炊飯用に鍋を買うことになった。それがダッチオーブン。
本来なら焚き火でもしてやるような全身鉄の鍋だがこれを買って炊き上がりは劇的に変化した。
今は玄米を手に入れて炊いている。涙がでるぐらい旨い。米もよく食うようになった。
できるだけ玄米を味わいたいもんだから一汁三菜ぐらいにしてゆっくりと食べている。
よく噛みしめて自分の飯を食う。これほどの幸せはないと感じる。こんなご時勢だから鉄はチカラなりとも頭をよぎる。