ひとり暮らしの料理写真は「芸術」ともいえるのではないかと思うのである。

チェブ夫 もろもろ

 
人の料理写真を見るのは楽しい。

チェブ夫

その中でも特にひとり暮らしの料理写真は、「芸術」ともいえるのではないかと思うのである。

 

 

人が作った料理の写真をツイッターで見るのは好きで、それぞれに工夫を凝らしているのが楽しい。献立の参考にすることは少なくないし、献立を考えあぐねているときに、それを見て献立が決まることもある。

料理写真は料理はさることながら「写真である」ことも大きいわけで、撮り方によって印象が大きく変わる。おなじ人でも、配置やアングルがあるとき進化することがあり、そういうところを見るのもまた微笑ましい。

 

料理写真には主婦などが人のために作った料理と、ひとり暮らしの人が自分のために作った料理とがあるわけだが、いろいろと眺めているうちに、ぼくはひとり暮らしのものが好きなのに気が付いた。

これはもちろん、「自分がひとり暮らしだから」に決まっていて、主婦の人がおいしそうな料理を作っていると、「ご主人がうらやましい・・・」と嫉妬にも似た気持ちが湧く。

愛する人に料理を作り、それをいっしょに食べることが「いかに幸せであるか」については、ぼくもよくわかっている。

 

しかしそれを承知の上で、「ひとり暮らしの料理写真には独自の広い世界がある」とあえて言いたいのである。

「芸術」とすら言えるところがあるのではないか。

なぜならば、ひとり暮らしが自分だけのために作る料理は、他人にとっては、「写真」としてしか存在し得ないからなのだ。

 

他人のために作る料理は、その料理が作る相手にたいする、ある「表現」になっている。食べてもらうことにより、相手に自分の気持ちなり、相手への思いなりを感じてもらいたいわけだ。

「表現としての料理」は、だから食べてもらうことで目的を達するのであり、それを写真に撮って人に見せるということは、あくまでも「二次的」だ。

「こんなものを家族に作りましたよ」などという、「報告」に近いものなのではないか。

 

ところがひとり暮らしの料理はちがう。食べるのは自分だけなのだから、料理は「食べる」という次元では、表現としては機能しない。

それが料理を写真に撮り、他人に公開することで、初めて「表現」となるのである。だからひとり暮らしの料理写真は、表現という土俵では、まさに「主戦場」だと言えるだろう。

そうであるとするならば、料理を作り、写真を撮って公開することを続けるうちに、そこにおのずと強い想いがこもるようにはならないか。

 

実際のところ、ひとり暮らしの料理は「純粋」である。自分だけのために作るのだから、「打算」が入り込む余地がない。

以前パーティーに持参する料理を作ったとき、それを実感したのだが、鯛めしの「みりん」の量を、自分ひとりが食べるときよりちょっとだけ多めにした。「甘め」のほうが、「おいしい」と感じてもらいやすいだろうと思ったからだ。

人に作る料理の場合も、そのような打算を乗り越えていく道があるのかもしれないけれど、ひとり暮らしの料理には、打算はハナから存在しない。

 

ひとり暮らしの料理写真が、そのように強い想いを、純粋に表現するものであるとすると、それは「芸術」とも言えるのではないかと思うのだが、どうだろうか。

もちろんこれは言うまでもなく、自分がやっていることを正当化し、自画自賛するために言っていることなのだが、あながち全く外れているとも思われないのである。

 

まあ、芸術であってもなくても、どちらでもいいのだが、少なくとも料理写真をツイッターなどに公開するのは、ひとり暮らしが自炊を続けるための大きなモチベーションになるのはたしかだ。

自炊家諸氏は、ぜひやってもらったらいいと思う。

 

「また大きく出たね。」

チェブ夫

ほんとだな。

 

 

 

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