昼飯に鯛めしの水漬けを食べ、しみじみと幸せを感じた。
自分が作った食事にさえ幸せを感じられれば、とりあえず前を向いて生きていくのに十分だろうと思えるのである。
昼飯は、残してあった鯛めしに氷と水を入れて食べた。
これがまた、うまかったのである。
じんわりと、「幸せだなあ」という実感がこみ上げてくる。
「幸せの実感」は、たとえば希望していた学校や会社に入れたときなど、感じることはあると思う。ぼくも昔、大学へ通いながらさらにあるミニカレッジへ行けることになったとき、「なんて幸せなんだ」と思った。
でもそれから会社に勤めるようになると、「幸せ」について考えることはなくなってしまった気がする。仕事の上での「達成」ばかりを考えるようになり、結婚も社内恋愛で、仕事がらみに近いところがあったから、幸せを噛みしめることはしなかった。
その結婚がけっきょく破綻したのは、今思い返せば当然のことだったかもしれない。
ふたたび幸せを感じるようになったのは、ぼくの場合は会社を辞めてからだった。「自由」にできるということが、これほど気が晴れやかになるものとは思わなかった。
金の苦労は今でもある。でも会社で、やりたくもないことを、さも「やりたい」かのようにやらなければいけないことに比べれば、どれだけマシなことかと思う。
さらにそれから感じるようになったのが、「食べることによる幸せ」だ。
これはまず、自分が作った食事で感じ、それから好きなラーメンでも感じられるようになった。「つくづくうまい」と思うとき、じわじわと「幸せ感」がこみ上げてくるわけで、ラーメンの場合は毎回だったが、自分が作った食事の場合は、「いつでも」というわけではない。
どうやらこれは、料理が非常にうまくいったときだけ感じるようだ。味付がちょっとでも狂うと、もう幸せ感はやってこない。
じつはきのう、鯛めしの時点ではちょっと塩気が多かった。なので、うまいはうまかったのだが、幸せとまでは思わなかった。
それが今日になり、その鯛めしに水を入れたら、塩気が薄まったせいであまりにドンピシャな味になり、おかげでじわじわと来たのである。
さらに献立も、関係があるようだ。炒め物などだとダメなようで、幸せを感じるときは決まって、「純和風」なのである。
加えてそのとき、「日本人に生まれてよかった」という気持ちも、一緒になって浮かんでくる。会社やら政治やら、日本は嫌なところも多いが、食事を食べるときだけは、日本が好きになるようだ。
そのうち女性とつき合いだし、好きな女と自分が作ったものを食べると、ひとりで食べているときより、もっと大きな幸せを感じられることもわかった。その大きさたるや「圧倒的」とも思えるほどで、ぼくはこの年になってようやく、昔加山雄三が「ぼかあ、幸せだなあ・・・」と鼻をこすった気持ちがわかった。
ただし今は、もうその女性とは別れたから、圧倒的な幸せを感じられる機会はない。
ないけれど、べつにそれでもいいと思う。
自分で料理し、それを食べることによる幸せは、女性とつき合っていなくても、財布の中身が乏しくても、何がなくともとりあえずは感じられるものである。
それさえあれば、前を向いて生きていくのに十分だろうとぼくには思える。
「またいい女性が見つかるといいね。」
そうだな。
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