昨日は魚屋に新鮮なブリがあったので、コトコト炊いてブリ大根にした。
これを肴に酒を飲みながら、「幸せとは、ありのままの自分を見出す喜びなのだ」と改めておもったのである。
昨日は酒を飲みながら、
「ぼくはなぜこんなに酒を飲むのだろう」
とふと考えてしまったのである。
体質で酒が飲めない人もいるわけだから、人間にとって「酒が必要」とは言えないのは明らかだ。
ぼくもべつに何かの必要があって酒を飲んでいるつもりでもなく、要は「酒が好き」だから飲んでいるわけなのだが、それならなぜ、ぼくはこんなに酒が好きなのかという話である。
この問いは、科学的には次のような説明がされるだろう。
「酒のアルコールが脳に作用し、開放感や快感、幸せ感などを感じさせるから・・・」
酒を飲むことによって一種の「錯覚」を見るのであり、それによって現実逃避するという説明だ。
もちろん酒を飲むことにより、それらの感覚を感じることは否定しない。
それを科学的に解明すれば、たしかに神経の細胞がアルコールによって反応するということになるのだろう。
でもぼくは自分が、単なる錯覚を見るために、ここまで金と時間をつかって酒を飲んでいるとはちょっと思えないのである。
実は酒のほかにも、今ぼくの生活を時間的に大きく圧迫しているものがある。
それは「ブログ」と「料理」だ。
ブログは以前は、長くても3時間で更新できていたものが、この頃は最低でも5時間、昨日は6時間かかっている。
料理も、以前なら早ければ1時間で準備できていたものが、今は最低でも2時間、日によっては3時間かかることもある。
ブログと料理に大幅に時間がかかるようになってしまったため、仕事をする時間がうまく取れなくなっている。
ブログも料理も、できればもっと、サックリと終わらせたいのに、今はそれができなくなってしまっているのだ。
その理由は、ブログと料理についてははっきりしている。
それらをやることで、非常に大きな「喜び」を感じるようになってしまったからなのだ。
その喜びは、一言でいえば「ありのままの自分を見出す喜び」である。
ブログを書くにあたっては、まずは「ネタ」が必要だ。
これはぼくの場合には、料理の作り方や写真だったり、飲み屋の話題だったりする。
以前はわりと、ネタをそのままブログに書いていたのだけれど、最近になり、「自分が伝えたいこと」を見出す方法がわかってしまった。
これは非常に簡単で、「構想に時間をかける」ことなのだ。
2時間ほどをかけると、初めは「イマイチ」と感じられていた構想が、ある時「まさにこれを伝えたい」と思えるものになる。
それを一旦経験してしまうと、もうそれなしにはブログが書けなくなったのだ。
料理もおなじだ。
構想に時間をかけると、「これが食べたい」とはっきりと思うメニューが浮かび上がる。
もうそれなしには料理を作る気にならない。
「これが伝えたい」という内容が書かれたブログや、「これが食べたい」と思える料理は、いわばブログや料理に「現時点でのありのままの自分」が投影されているわけだ。
それを形にしていくことは、大きな喜びと満足感があるし、また後からブログを読んだり料理を食べたりする際も、ブログや料理に込められた「自分」が可愛くて仕方がなくなる。
ぼくは「酒を飲む理由」を考えていくうちに、ぼくにとっては、酒を飲むこともこれとおなじなのではないかと思えたのである。
酒を飲むと、これはまさにアルコールの化学的作用だと思うけれども、細かいことが考えられなくなるために、立場や義務、しがらみなどからかなりの程度自由になる。
そうなると、自分の言うことやふるまいは、立場や義務などによらない「ありのままの自分」を表現することになる。
これが「酒を飲む喜び」なのではないだろうか。
さらに考え、ぼくはこの「ありのままの自分を見る喜び」こそは、「幸せ」の基本形なのではないかと思えてきたのだ。
たとえば「子供を産む」こともおなじだろう。
自分の遺伝子を受けついで生まれる自分の子供は、まさに自分の肉体的な表現となっている。
「恋愛」もおなじなのではないかと思える。
恋愛の喜びは、相手を「自分の肉体の一部」のように感じられることだろう。
そのように考えてみると、人類がこれほどの長きにわたって酒を愛し続けてきたのには、それなりの奥深い理由があると思えたわけなのである。
というわけで、昨日は「ブリ大根」を食べたのである。
ブリは寒くなるにつれ脂が乗っておいしくなるから、今まさに「旬に入りつつある」ところだろう。
ブリは切り身もうまいけれど、やはり何と言っても「アラ」なのだ。
アラは切り身よりさらに脂が乗っていて、しかも値段も安いと来ているわけだ。
ブリ大根は、京都の人は、一番ていねいに作るとしたら、「ブリと大根を別に煮る」となる。
ブリはこってりと甘辛く、そして大根はブリの煮汁をうすめてあっさりと煮るわけで、魚屋の女将さんもお店で販売するお惣菜としてブリ大根を作る時は、「そうやって作る」と言っていた。
でも魚屋の女将さんも、家で食べるブリ大根を作る時には、そこまではやらないそうだ。
まず大根を昆布だしで煮て、そこにブリを入れて味をつけて一緒に煮ると言っていた。
ブリと大根をいっしょに煮る場合、「火加減」がとても大事になる。
ブリを煮詰めてコッテリさせるには、強めの火で煮る必要があるわけだが、大根を強い火で煮てしまうと、火が通りすぎてやわらかくなり過ぎたり、縮んでしまったりするからだ。
これは「ブリと大根のどちらを優先させるか」という問題になるのだが、昨日は大根を優先し、弱い火でコトコト煮ることにした。
そうすると汁は煮詰まらないから、その分調味料をたくさん入れるわけである。
さてブリ大根を作るには、鍋にだし昆布を敷き、水を張り、厚く皮をむいて2センチ厚さほどに切った大根を煮る。
水はあとからブリをいれるから多めが必要で、昨日は4カップいれた。
大根を煮ているあいだに、ブリは湯通ししておく。
熱湯にひたしてシャブシャブと混ぜ、そのあと水でよく洗う。
大根が、串がすっと通るくらいやわらかくなったら、ブリをいれる。
ここでまず、酒と砂糖、みりんだけいれる。
分量だが、元を4カップの水でスタートしたとすると、大根を煮ることで水は少し蒸発し、3カップくらいになっているはずである。
ここにまず酒を1カップいれて、水分は4カップ、さらに水分1カップにつき4分の1カップずつ、4カップなら、1カップずつの砂糖とみりんをいれるようにする。
初めに出てきた茶色いアクは取り除く。
ただその後の白いアクや浮かんでくる脂などはうまみ成分なので、取り過ぎないよう気を付ける。
落としブタをし、弱火でコトコト10分煮たら、しょうゆ3分の1カップをいれる。
さらに10分たったら、味を見ながらしょうゆ3分の1カップくらいをまたいれる。
最後のしょうゆは、「少し甘いかな」くらいに抑えておくのがポイントだ。
塩味は、煮汁が冷めると強くなるのである。
計30分煮たら火を止める。
あとは一晩でも、煮汁にひたしておけばおくほど、味がしみておいしくなる。
青ねぎと、好みで七味をふって食べる。
まだそれほど味はしみてはいないけれども、十分おいしいのである。
それからみょうがととろろ昆布の吸物。
これはぼくのとろろ昆布の吸物史上、最強にうまかった。
お椀に削りぶしととろろ昆布、タテに細く切ったみょうがをいれ、お湯を注いでうすくち醤油で味つけする。
一味をふって食べるとまたいい。
大根の皮と葉のじゃこ炒め。
ゴマ油とちりめんじゃこで、細く刻んだ大根の皮とざく切りの大根の葉をやわらかくなるまで炒め、酒とうすくち醤油を少々いれて、汁気がなくなるまでさらに炒め、一味をふる。
厚揚げ焼き。
ショウガと青ねぎ、味つけポン酢。
酒はぬる燗。
やはり冬は、おいしい肴があれこれあるから、酒がうまいのである。
「ぼくはおっさんの分身じゃないからね。」
そうだよな、チェブ夫はチェブ夫だよ。
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コメント
フラれてもフラれてもまた恋愛するように、ひどい二日酔いでもまた夕方には飲みたくなります(笑)
高野さん、感動し過ぎてお便り出来ずにいました。御本入手出来ましたー。毎日本当に楽しみ、京都から去らずに発信お願いします☆彡