相変わらずその日暮らしをつづけている。
志をつらぬこうと思ったら、「才能」や「運」などのオバケに惑わされてはいけないのである。
相も変わらずその日暮らしをしているが、何とかなっているのである。
4月に遊びすぎたおかげで金がなくなり、連休明けからはがんばって仕事をしているのだが、それでも追いつかず、「今月は苦しいな」と思っていたら、臨時で割のいい仕事がポコリと舞い込んできた。今週も「入金予定がある来週までもつか」と思っていたのだが、忘れていた金が振り込まれ、事なきを得た。
もっときちんと金を稼ぐことを考えたらいいと思わなくもないが、いかんせん、ぼくは金に興味がない。
それでも若ければ、それなりにがんばったとは思うけれども、もういい年なのだから、これでいいと思っている。
とは言ってもまだしばらくは、仕事をしていかないといけない。どうせしないといけないのなら、少しでも意義深いものにはしたいと思う。
「やりたい」と思うことはあり、もし神様が、ぼくにそれをさせる必要があると思えば、させてくれるのだろうと思う。
ぼくは自分がやりたいことについて、「できるかできないか」など考えたことがない。やりたいのなら、「やってみる」までだろう。
未来のことなど誰にも予言できないのだから、自分のことであったとしても、「できない」などと決めることができないのは言うまでもない話である。
でもそこに、悪魔が忍び寄ってきてささやくわけだ。
「おまえには才能がない・・・」
実際の話、そのささやきに負け、志をあきらめる人は少なくないのではないかと思う。
よくよく考えてみようではないか。それではその「才能」とは、どのようにして判定されるのか?
今では「天才」のほまれ高いゴッホが、その存命中、誰からも評価されなかったのは知られた話だ。
才能は、結果として成し得たものをもって、あるとき、誰かによって判定される。だからそれまでは、「自分は天才である」と決め、前に進めばいいだけである。
芽が出ないうちは、たしかに苦しい。生活の不安もある。
でもそういう、先の見えない状況にあってこそ、理性的な判断が求められるのである。
「才能」や、そして「運」や、そういうものは、恐怖が作りだす「オバケ」なのだ。
志をつらぬこうと思ったら、惑わされないことが必要だろう。
「言うことだけはいつもデカイね。」
ほんとだな。
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