ぼくはもし、街中などでばったり倒れたら、延命措置はせずにそのまま死にたい。
人生は、一回きりでいいのである。
会社をやめ、退職金でブラブラしていた頃、つくづく思ったのが、
「オレはうまい酒が飲めれば、あとは人生それでいい」
ということだ。仕事上で、やりたいことは色々あると思っていたが、それはあくまで「仕事上」の話であり、もし金がいくらでもあり、仕事をしなくていいのなら、別にそれもしなくていい。
やりたいことは、一通りやって来て、身勝手な人生を送ってきているから、自分的に「やり残した」と思うこともない。
「あとの世代への義理」は、果たさなければいけないと思っているが、それも自分の寿命があればの話で、無理してやることでもないだろう。
だからぼくは、もう、いつ死んでもいいのである。別にそれが、「今」でもいい。
あとは神様が、ぼくを生かしておいた方がいいと思えば、そうするだけの話だろう。
長生きするために努力するのは、「したくない」と思うのだ。
ただし、死ぬまでは、健康でいたいとは思う。死に方の理想としては、
「きのうまでピンピンしていたのに、今日になったら死んでいた」
というものだ。
だから健康には、それなりに気を遣う。気の遣いどころとしては、主に「食生活」である。
食事については、
「食べたいと思うものを食べている限り、体にいい」
と思っている。
体が欲するものは、体が必要としているものだろう。だから大切なのは、体がどのようなものを欲しているかを、神経を鋭敏にして感じ取ることだけではないかと思っている。
これを誤解することがあるのであり、例えば酒を飲んだあと、ラーメンが食べたくなる。しかしこれは、本当は、体は「麺」を欲しがっているのでなく、体内のアルコールを分解するため、アミノ酸がたっぷり溶け出した「汁」を飲みたがっているのである。
だからここで、ラーメンを食べるのではなく、とろろ昆布の吸物を啜ることにするなどの判断は、当然のこと必要となる。
体の不調に関しても、例えばどこかが痛かったとして、すぐに医者に行かないといけないわけではないこともある。
ぼくは以前、奥歯の歯根が痛くなったことがある。本当に奥歯の根元のところだから、これは磨き残しによる歯周病ではなく、歯根に潜んでいた細菌が、何かの拍子に暴れ出したと思われた。
医者に行けば、抗生物質を投与され、そのあと歯に穴を開け、病巣を消毒し、またそこを埋めて歯になにか被せてと、数ヶ月に及ぶ治療となる。ぼくは以前にそれをしたことがあり、大変な思いをした。
しかしその時は、かなりの痛みがあったけれど、歯医者へは行かないことにしたのである。
歯根が痛いということは、細菌と、免疫細胞が戦っているということだ。痛みの意味は、必ずしも「医者へ行け」ということではなく、「ぼくたち、頑張ってますので!」という、免疫細胞からのメッセージだと考えてもいいはずだ。
それならば、そのメッセージは「受け止める」のが筋だろう。
心のなかで、免疫細胞を「ガンバレ!」と応援し、さらに暴れる細菌に「なめんなよ」とニラミを利かせておいたら、痛みは1~2日で引き、あとは完全に治ってしまった。
肌にしても、石鹸で洗ったり、さらには風呂に入ったりし過ぎないほうが、臭くもならないし痒くもならない。
必ずしも、医者を全否定するわけではないのだが、細胞や、肌の微生物など体そのものが持つ働きを、もっと信じてもいいのではないかと思うのである。
がんは自覚症状がないそうだ。だからがん検診をマメにして、初期の段階で発見しなければいけないと言われる。
しかしこれについても、「本当なのか」と、ぼくは思う。体が自覚できないことを、なぜ知らなければいけないのかと思うのだ。
これはもちろん、年齢や、その人の考えによっても違うし、また例えば放射線などの影響がありえる地域に住んでいるなら、それはそれで、気を付けなければいけないこともあるだろう。
しかしぼくの場合は、もしがんになったのなら、それは「寿命」だと思ってあきらめたい。だいたいぼくは、たばこをスパスパ吸っているわけだから、がんにならないわけがない。
がんになったら、神様が、「もうこれで十分だよ」と言ってくれたと思い、素直に死にたいと思うのだ。
だから今年から、がん検診はもちろんのこと、健康診断へはもう行かないことにした。
自分の体は、人にとやかく言われずとも、自分で判断するから、それでいい。
あと心配なのは、街中などで、脳の血管や心臓が破裂したりして倒れたとき、自分の意志に反して延命措置をされることだ。こちらとしては、それは理想の死に方なのだから、それを止められてしまうのでは口惜しい。
そこで運転免許証に、その旨、書き込んでおくことにした。
救急病院に搬送されると、まず身分証明を探すとのことだから、運転免許証に書き込んでおけば、医者は必ず、それを目にすると聞いた。
ぼくは人生、一回きりでいいのである。
それを大事に生き、味わい得るものを味わえれば、それで十分だ。
「ほんとにそんなに潔くできるの?」
その時になってみないと解らないけどな。
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