小林秀雄は、「想いなどセンチメンタル」と思う人には難解だ。
でも自分の想いと世の中との折合いで悩む人には、「貴重な出会い」ともなり得ると思うのである。
小林秀雄は「難解だ」と言われることがある。でもそれは正確には、「合う人と合わない人とがいる」ということだろうと思う。
小林秀雄は「近代」を徹底的に批判しつづけた人である。特に嫌いなのは「学者」で、クソミソにやっつける。
近代を批判するとなると、多くの人は、小林秀雄の批判の対象として該当することになる。批判された方としてはそれを簡単に認めることはできないだろうから、「難解だ」という言葉で片付け「相手にしない」ということなのだろう。
実際小林秀雄は「ケンカの達人」だったという話があり、飲んで誰かをやっつけ始めると、大の男が泣くまでやめなかったのだそうだ。最初期の作品はそのケンカ殺法が遺憾なく発揮され、小気味がいいことこの上ない。
しかし狭い「文壇」の世界のこと、そのうちそれではやって行かれなくなったようで、「文芸批評家」でありながら、当時発売されていた新しい文芸については何も書かなくなってしまう。
批判をすると、批判された相手は正面切って反論してくるのでなく、裏からネチネチと文句を言ってくることが多かったみたいで、「それではやっていられない」ということだっただろう。
しかし小林秀雄が偉かったのは、それで筆を折ってしまわず、新たに活路を見出していったことである。問題点を批判することで正道を示そうとするだけでなく、正道そのものを直接自分で大づかみに描いてみせるようになった。
ドストエフスキーの評論からそれは始まり、そのあと西行や実朝など日本の古典、さらには「文学」からも枠をはみ出しモーツァルトやゴッホ、そして最後に小林秀雄の集大成、本居宣長へといたるのである。
それらの作品を通し、対象は違えども、小林秀雄は終始一貫、同じことを言わんとしているように思う。科学に代表される「近代」の考え方では決して到達することができない世界が「現にある」ということを、モーツァルトやゴッホなど「天才」の作品を通して示そうとしているように思える。
小林秀雄は、たとえば「歴史」は、たとえ資料や遺跡などがあったとしても、「客観的には存在しない」と言っている。亡くなったお母さんのことを想うように、「先人を想う」ことによって初めて、歴史は息づき始めると言う。
この「想う」という人間にとってあまりに当り前のおこないが、きちんと位置付けられていないことが近代の「欠陥」だと、小林秀雄は言いつづけているように思うのである。
だから「想い」など、「単なるセンチメンタル」と思う人には、小林秀雄は難解なだけだろう。読んでも時間のムダである。
でもきっと、自分の想いを、世の中とどう折合いをつけたらいいのか、悩んでいる人もいるだろう。
そういう人にとっては、小林秀雄は「人生の師」ともなり得る、貴重な出会いになるかもしれないと思うのである。
小林秀雄にまず触れるなら、「考えるヒント」がいい。題材がわりと身近だからわかりやすい。
本を読むのが苦手なら、講演を収めたCDも面白い。
音楽が好きな人は「モーツァルト」、絵が好きな人は「近代絵画」から入ってみるのもいいと思う。
対談もいい。これは数学者岡潔とのものなのだが、一見論理だけからできているような数学も、実は「想いが大切」と岡潔は語っている。
「おっさんは小林秀雄好きだよね。」
かぶれてるからな。
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