ぼくは、小林秀雄とナンシー関が、好きなのだ。
それは二人が、自分のはっきりとした好き嫌いを、世の中に受け入れさせたからである。
ツイッターで発言を見ていたりして、
「ぼくは、好き嫌いがはっきりしている人が好きだな」
と、自分で思う。
特に、嫌いなことがはっきりしている人が良く、そういう人が、うまくオブラートに包みながら、自分の嫌いなことを表現しているところを見ると、つい、クスリとしてしまう。
「好き嫌い」は、世の中的には、典型的な「欠点」だと言えるのではないだろうか。食べ物でも、「好き嫌いをせず食べなさい」と言われて教育されたはずである。
特に人の好き嫌いをすることは、致命的とも言えることで、そんなことをしていたら、世の中をうまく渡って行くことはできないだろう。
でもだからこそ、ぼくはそういう人が好きで、愛おしく思うのだ。
好き嫌いとは、人間の感性の、最も基本的なものだと言えるのではないだろうか。食べ物でも人でも、自分が好きなものを食べ、好きな人に接しているときは、幸せな気持ちになる。
ところが大人になっていくにつれ、そういう自分の感性と、世の中の価値観との食い違いを意識することになる。
その食い違いに、どう折り合いを付けるかが、「大人になる」ことの意味だろう。
一番簡単なやり方は、自分の感性を抑えこみ、世の中の価値観に従うことだ。多くの場合、これが一番お金を儲けることもできる。
また少し高等なやり方として、「本音と建前を使い分ける」こともある。これは伝統的に、日本人が得意としてきたやり方だろう。
でも、そのどちらのやり方を採るのでもなく、生きていこうとする人も、時たまいるわけである。
それはまさに、いばらの道にならざるを得ないわけだが、ぼくは、そういう人が好きなのだ。
小林秀雄
と、ナンシー関
は、まさにそういう人である。
終生、自分の好き嫌いを遺憾なく表現しながら、それを世の中に受け入れさせた。
小林秀雄は、これはぼくなりに翻訳した言い方になるが、
「好き嫌いから出発することこそ、批評である」
とまで、言っている。
ナンシー関のテレビ批評も、まさにそれを体現しているだろう。
ただし、念のために言っておくと、嫌いなことを表現するとは、嫌いな気持ちを剥きだしにし、それを罵倒することではない。
自分がそれを、なぜ嫌いであるかについて、世の中の、それを嫌いでない人が、納得できるだけの言葉を見つけることである。
「おっさんはまだまだだね。」
ほんとにな。
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