寒がもどしてあまりに寒かったから、きのうは別れを告げたはずのタラに再登板してもらい、吸物にした。
これを肴に酒を飲みながら、「自由とは自分の飯を自分で作れることだ」とあらためて思ったのである。
5月の陽気がつづいたかと思ったら、一転ふたたび雪が舞う気候になってしまったわけで、五十をすぎると寒いのは辛い。
代謝が下がり、血行がわるくなるからだろう、手足が冷えるようになる。
風呂と、それに酒は欠かせないわけなのだが、加えて体をあたためるものが食べたくなった。
となれば必要なのは、「冬の食べもの」であることになる。
魚屋へ品を見にいくと、ホタルイカやら新子やら、春のものが並んでいるが、イマイチ手がのびず、目はタラの方へいく。
タラはこの冬、棒ダラをはじめとしてそれなりに満喫し、別れを告げたつもりだったが、やはり体をあたためる汁物に入れるのなら、タラの右に出るものはないだろう。
鍋物はもちろんのことだが、あと魚屋がすすめるのは、吸物とみそ汁である。
「大根とあわせて青ねぎを振って」とのことで、きのうは吸物にすることにした。
タラは淡白な魚で、だしはあまり出ないから、汁物にするならだしを使った方がいい。
3杯分、3カップ半の水に5センチ角くらいのだし昆布とミニパック6袋分くらいの削りぶしをいれ、強火にかけて煮立ったら弱火にし、アクをとりながら5分煮る。
このだしにうすくち醤油大さじ3、みりん小さじ3ほどで味を付け、大根と豆腐、それに大きめに切った生ダラの切り身を10分ほど、大根がやわらかくなるまで弱火で煮る。
火を止めて、少し置いておけば味がしみる。
青ねぎをふって食べる。
タラのうまみは、汁物には打ってつけなのである。
あとは菜の花と生節のポン酢。
これは春のものである。
生節は煮て食べるほか、そのままショウガ醤油などで食べてもいいし、ほぐしてツナのように使うのもいい。
さっと一瞬、塩をふった水で茹で、水で冷やしてよくしぼった菜の花に、ほぐした生節を加えて味ポン酢をかける。
冷蔵庫にはいっているしじみのショウガ煮。
大根の皮などのジャコ炒め。
すぐき。
酒はぬる燗。
これを飲みながら、
「『自由』とは自分の飯を自分で作れることだ」
とあらためて思ったのである。
さて「自由」なのだが、会社を辞め、「ひとりで生活していこう」と決めるにあたり、ぼくも不安がなかったわけではない。
自分なりに万全の点検はしていたから、「大丈夫なはずだ」とは思っていたが、仕事の目途があったわけではなかったし、生活のレベルを下げ、みじめな思いをする可能性だってある。
でもそれは杞憂であった。
生活レベルを下げることでみじめな思いをしたことは、ぼくの場合は皆無である。
それはぼくが、自分で料理ができるからである。
生活レベルを下げるとは、食費に関していえば、「外食を減らす」ことだろう。
しかし外食をしなくても、ぼくは下手な外食よりよっぽどうまい食事を自分で作れる。
「満足できるものを毎日食べる」という最低限の幸せを、ひとりで確保できるのである。
これが「自由」ということだとぼくには思える。
幸せになるために、何かに執着する必要がないのである。
もちろん誰かといることで得られる幸せを、ぼくは否定するわけではない。
ぼくの友達に、よく出来た奥さんがいるのがいて、自分の好みを知りつくし、心から満足できる食事を毎日作ってくれるという。
「もう彼女を追い出すことは考えられず、困っているよ」
軽口をたたきながら彼は笑う。
全くうらやましい話だが、いわば彼は、奥さんといる幸せのため、「不自由」を進んで買っているわけである。
しかしぼくにとっては、「自由」のほうが大事である。
それは料理ができてはじめて可能になると、ぼくは思う。
ちなみに昨日も、喫茶店PiPiで昼酒をした。
ぼくにとっての「幸せ」は、こんな小さなことである。
「おっさんは脳天気だよね。」
ほんとだな。
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コメント
授乳中なので、お酒飲めないんですが、昼酒・料理しながら酒、いいなぁと思ってしまい、昼に料理しながら、ラムコークのラム抜きを飲みながらチャーシューをつくりました!いつもよりおいしくできました!
朝酒昼酒してます。料理作りながら飲む、これぞ立ち飲みですな。