きのうは、鯛あらのうどんすきにした。
メニューを考えることにこそ、自炊の最大の意味があるんですよね。
きのうは午後、昼寝から覚めた布団のなかで、晩飯のメニューを考えてみるのだけれど、ちっとも思い浮かばない。
それもそのはず、お腹が一杯だったのだ。
きのうは昼に、前の日につくって残してあった、イカと厚揚のカレーを食べた。
油をけっこう使ってカロリー多め、それにご飯も食べたのだから、1時間や2時間で、腹がへるわけがない。
腹がへっていなければ、食べたいものも、思い浮かばない道理である。
自炊をするとなると、もちろんあれこれ、しないといけないことは増えるのだが、なかでもこの「メニューを考えること」には時間をつかう。
パッと思い浮かぶことも少なくないが、何しろ毎日のことだ。そのうちアイディアにつまり、「何を食べたらいいのか分からない」ことにもなってくる。
主婦の人の場合なら、食事は何が何でもつくらないといけないから、「メニューが浮かばない」などとは言っていられず、無理矢理にでも何かひねり出すだろう。
それが「苦痛だ」という声も、主婦の人から何度かきいたことがある。
ひとり者の場合には、べつに自炊は義務ではないから、メニューが浮かばないとなれば、食事をつくること自体をやめて、「外食しよう」となったりもしがちなのではないだろうか。
もちろん、ひとり者にとっては、「思い浮かばなければ、無理せず外食する」のも一つのやり方で、ぼくもそうすることもある。
しかしぼくは、この「メニューを考えること」にこそ、「自炊の最大の意味がある」とすら、言えるのではないかとおもうのだ。
ひとり者は、「食べたいもの」をつくるはずだ。だからメニューを決めるのも、「自分は何を食べたいのか」を考えることになるだろう。
主婦ならば、メニューが思い浮かばないとき、ご主人に「何を食べたいか」をきいたりするかもしれない。
ひとり者の場合には、それを聞きにいく相手は、「自分の体」だ。
ひとり者の自炊とは、
「体が欲する食べものをつくる営み」
なのである。
これがまず、「健康」にいいことは、言うまでもないといえるのではないだろうか。
体が欲し、必要とするものは、体に足りないものであるはずだ。
「健康」というと、あれこれと情報を仕入れ、「体にいい栄養」をとることだと思いがちだ。
しかし人間は、何十万年もの長い間、「栄養」などという言葉がまだない頃から、健康でいられたはずだ。
健康のために必要な栄養は、頭ではなく、自分の体が、誰よりも知っているはずなのだ。
だからメニューがなかなか思い浮かばないような時こそ、むしろちょっと頑張って、思い浮かぶまで長考してみるのも、悪くないのではなかろうか。
食べたいものは、自分が大きく見落としていた、意外なものであることもある。
しかしひとり者が自炊メニューを考えることには、さらに大きな意味があるとおもえる。
体の声に耳をかたむけ、何を欲しているのかを感じながら、それを頭で、「料理」の形にしていくこと、、、
それは、「自分自身」を確認することの、「もっとも基本」だとおもうのだ。
いまの世の中、頭で考えることばかりが増え、体が置き去りになってしまうことが多くなっているのではないだろうか。
とくに会社などに勤めていると、体がどんなに不調でも、仕事を休ませてもらえないなどという酷いことも、あるかもしれない。
頭ばかりで考えてしまようになると、「自分」はどんどん、見えなくなるのではないか。
巨大なシステムに組み込まれ、そのなかの一つの歯車であるだけでは、人間は、生きる意味を見つけられない。
生きているのは「体」であり、体が満足することが、「生きる」ことそのものだ。
体にとって、まず第一に必要となるのは、「食べもの」だろう。
だから「何が食べたいか」を体にくり返し問いかけることは、自分自身を確認し、生きる意味をみつけることの、基本的な訓練になる。
さらにいえば、それこそが、「自由」ではないかとおもう。
自由というと、何となく、「選択肢の多さ」だという気がする人も多いだろう。
しかしそれは、単なる「選択の自由」というだけの話で、「人生における自由」とは、自分がほんとうに進みたいとおもう道へ、勇気をもって踏み出すことだ。
ひとり者が自炊をするのは、自分が心から食べたいものを思い浮かべ、それを勇気をもってつくる、「自由」を得る訓練でもあるのである。
自炊者は、自炊のたびに、小さな自由を勝ちとっているのだ。
自炊メニューを考えることには、そういう意味があると、ぼくはおもう。
多少の時間をかけたとしても、十分、価値があるのである。
というわけで、きのう、お腹が一杯で食べたいものが思い浮かばなかったから、それはお腹がへってから、考えることにした。
そうしたら、ようやくお腹がへってきたのは、仕事を終えた、夜の9時。
まず、温かいうどんが食べたい気がした。
何をいれるか、すぐには思い浮かばなかったが、スーパーへ行って鯛あらをみつけ、これをいれることで、食べたいものはめでたく決まった。
鯛あらをうどんすきにするのは、じつに簡単。
鯛からおいしいだしが出るから、だしをとる手間もかからない。
鯛のことだけ考えれば、甘みはいれない方がいい。
でもうどんには、ちょっと甘めの汁が合うから、みりんを少しいれるようにする。
まず昆布だしをとる。
4カップの水にだし昆布をいれ、煮立てないようにしながら10分くらい煮出す。
だしを取っているあいだに、鯛を塩焼きにする。
塩をふり、つよめの火で、中まで火が通る必要はないのだから、軽く焼き色がつくくらいにサッと焼く。
昆布だしに、だしが3カップなら、
- 酒 大さじ3
- みりん 大さじ1
- 淡口しょうゆ大さじ1
で味をつけ、鯛と、野菜を煮えにくいものから順にいれ、最後にうどんをいれて煮る。
煮えたところで味をみて、必要ならば塩を足す。
そのままでもおいしいが、うどんだから、青ねぎと一味をかけてもいい。
鯛のうまみを一杯にふくんだうどんが、うまいのは言うまでもないのである。
酒は、熱燗。
食べたかったものを食べ、体がポカポカとあたたまるのは、まさに「幸せ」だ。
「食べることに時間をかけ過ぎなのもどうかとおもうよ。」
そうだよな。
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