ぼくは家で自分でつくった料理を肴に、ツイッターを相手にしながら酒を飲むのも好きなので、「外飲みをしないといけない」と決めているわけではないのだけれど、家飲みが3日つづくと、どうしても外へ出たくなる。
それで土曜日に外飲みをした場合、水曜日になると矢も盾もたまらず、四条大宮の街へ繰り出すことになるのである。
それで昨日も、まず行ったのは「スピナーズ」。
カウンターの端に一つだけ空いた席に腰かけて、生ビールと「蒸し鶏」を注文した。
蒸し鶏は、ちょっとエスニックな風味がする。
マスターのキム君に、
「オイスターソースが入っているの?」
と聞いてみたら、
「ちがうんですねー、ナンプラーです」
との答だった。
しょうゆやみりんなどの和風調味料がベースで、さらにセロリの刻んだのなども入っているとのことだった。
キム君の料理は、一品一品創意工夫が感じられて、食べるのが楽しいのである。
それから「ポテトサラダ」も頼んでみた。
固めにゆでられたサイコロのポテトに加え、カボチャにレーズンも入っている。
ポテトサラダとしては変わっているが、大変うまい。
「これからうちのポテサラは、これで行こうと思うんですよ・・・」
キム君も自信があるようだ。
カウンターの隣には、沢村一樹似の男性が座っている。
ホームページ制作などを仕事にしていて、ぼくのブログ運営についても無料でアドバイスをしてくれる。
「フェイスブックページを立ち上げたらいい」と教えてくれたのも彼で、おかげでたくさんの人に、新たにブログを見てもらえるようになっている。
さらに昨日は、
「メールマガジンも、またブログとは違って、それなりの良さがあるんですよ」
とのことなのである。
ブログはわざわざ自分で見に行かなければいけないのに対し、メールマガジンはメールだから、自動的に配信されることになる。
「人によっては『その方がいい』ということも多いんですよ」
とのことなのだ。
たしかにぼくも、毎日は無理だけれど、一週間に一度くらいのペースなら、ブログとは別に書きたいこともある気がする。
この一週間のブログや出来事を振り返ってみたりするのは楽しそうにも思うから、考えてみることにした。
スピナーズでは生ビールを2杯飲み、さらに少し食べるため、「てら」へ向かった。
てらは最近、行くたびに常連さんとなじみになるのが楽しいのである。
ぼくも京都へ来たころは、東京とは文化がちがうため、お店になかなかなじめない気がして、「どうしたらなじめる」のかをあれこれ考えたこともある。
でも今思えば、それは考える必要がなかったのだ。
要はどんな店でも、行く回数を重ねれば、必ずなじめるようになる。
なじむのは、「方法」の問題ではないのである。
昨日もてらさんの料理はうまかった。
スパサラ100円。
豚天250円。
お肉屋さんのメンチカツ100円。
メンチカツはお肉屋さんがつくったものを仕入れるそうだが、ボリュームがあって味もよく、これが100円とは信じられないことなのだ。
昨日はスピナーズでも見かけるお客さんが近くにいて、その人とは二言三言話をしたが、その人が帰ってからは、他にはあまり話をせず、テレビを見ながら酒を飲んだ。
でもべつに、料理はうまく、居心地もいいのだから、何も問題ないのである。
さててらを出て、一瞬ラーメンを食べたくなったが、家に粕汁が残っていたのを思い出し、それを肴にもう少し飲むことにした。
飲みながら、「天下一品は現代の粕汁だ」と思ったのである。
というわけで、「天下一品」についてなのだが、ぼくは京都の人と接していて、「粕汁」とならんでもう一つ、「京都人のソウルフード」があるように思うのだ。
それが、「天下一品のラーメン」なのである。
府外の人は知らないことも少なくないと思うのだけれど、「天下一品」は京都市発祥のラーメンチェーンだ。
この天下一品のラーメンを、「惚れぬいている」と見える人が、京都には少なくないようにぼくは思う。
たとえばスピナーズのマスターキム君は、
「天下一品は、『ラーメン』と一括りにされる中に属するものではなく、『天下一品』という別のものだ」
という言い方をする。
天下一品は「その他のラーメン」とは、「次元がちがう」わけである。
「スピナーズのお客さん」など、ぼくが身近に出会う限られた人の中でも、たとえば「10月1日の天一の日」には「必ずならぶ」という人は何人もいる。
ぼくの知っている京都人のある女性は、
「結婚したころ貧乏で、好きな天下一品のラーメンを十分食べに行けなかったから、家で天下一品とおなじ味のラーメンを、わざわざ何時間もかけて作って食べた」
と言っていた。
そこまで行かなかったとしても、京都の人で、「ラーメンを食べる人で天下一品を食べたことがない人」は、まずいないのではないかと思う。
ある豚骨ラーメン屋がわりと最近近くにでき、その感想を何人もの京都の人と話したことがあるのだが、その全員が、
「『ふつう』って感じ・・・」
と言っていた。
そのラーメン屋は、仕込みに時間をかけることで、「スープがコッテリしている」のがアピールポイントとなっている。
「ふつう」という言葉の意味は、
「天下一品にくらべると全然コッテリしていない」
という意味である。
さてその天下一品は、白濁したドロドロのスープが特徴だ。
どの豚骨ラーメンよりコッテリしていて、これは鶏の、骨だけでなく「皮」もつかい、野菜といっしょに長時間煮出したものなのだそうで、皮のゼラチン質が溶け出しているから、あのようにドロドロになるのだそうだ。
ぼくはこの天下一品のラーメンが、「豚肉の粕汁」にそっくりの味をしていることに、昨日粕汁を食べながら、ふと気付いたのである。
「ドロドロとした白い汁」というのがまずそっくりだし、さらに味も、豚肉の粕汁の場合には、チャーシューの乗った天下一品のラーメンと、とてもよく似ているのだ。
そうしてみると、天下一品のラーメンが、なぜ「ソウルフード」と言いたくなるほど京都の人に支持されるのかがわかる気がしたのである。
「古くからのソウルフードである豚肉の粕汁と、おなじ味だから」
なのではないか。
「白いドロドロとした汁物」が、京都の人は好きなのだ。
天下一品のラーメンは、京都人の嗜好のツボにまさに的中するものなのだと、ぼくは昨日思ったのだ。
さらにこれは、あくまで想像なのだけれども、粕汁や天下一品など「白いドロドロとした汁物」は、やはり元は、「白味噌のお雑煮」なのだろう。
塩分が少ない白味噌は、味をちょうど良くするためには、かなりの量をだしに溶かし込むことになり、その結果、汁はポタージュスープのような、「ドロッ」とした加減になる。
さらにここに京都の人は、「頭芋」をくわえて食べる。
この頭芋が「ネットリ」していて、この「ドロリ」「ネットリ」の食感を京都の人は楽しむのである。
ただしこの白味噌のお雑煮は、「年に一ぺん」のが基本である。
白味噌はもともと貴族文化からの発祥だから、「庶民がいつも食べるには高級過ぎる」という意識もあるのかもしれないし、お雑煮はさまざまな願い事をするためのものでもあるから、それを年中食べるというのは憚られるのかもしれない。
そこで白味噌のお雑煮に代わって、庶民がいつでも食べたいだけ食べられる、白くてドロリとした汁物が、「粕汁」なのではないだろうか。
酒粕は、お酒を作ったあとにできる「残り物」なのだから、これを十分活用して憚ることはないのである。
そう考えると、京都の人がなぜ粕汁に、全国標準の「鮭」ではなく、「豚」を使うのかもわかる気がするのである。
お雑煮は神仏に供えられることもあるから、生臭くなる元であるかつお節や煮干しなどは使わず、だしは昆布だけで取るのだそうだ。
豚も生臭いには違いないが、とりあえず粕汁は、「魚臭さがなければいい」のではないだろうか。
また牛ではなく豚が使われるのは、粕汁があくまで「庶民の食べ物」だからだろう。
粕汁の起源については、ネットをあれこれ探しても、どうしても出てこない。
これは粕汁に限らずに、家庭料理は多くの場合、起源などわからない。
だからくり返しになるけれど、上のことはあくまでぼくの「想像」だ。
そう考えると、なぜ京都の人が、豚肉の粕汁と天下一品のラーメンをこれほどまでに好むのか、「わかるような気がする」ということなのである。
「ぼくも天下一品は大好きだよ。」
またいっしょに食べに行こうな。
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コメント
天下一品は他府県から来た人が、旨いとよく仰います。
でも京都市内在住の人は、案外に食べない人も多いですよ。
私も2,3回しか行ったことないですね。第一旭派です^^
余談ですが、天下一品では、「こってり」のほか「あっさり」スープも選択できますよね。さらにメニューにはありませんが、実は、その中間バージョンである「こっさり」も頼めば出してくれます。ぼくは京都の人間ですが、他府県の店でも同様のサービスはあるのですかね。