きのうはカウンターで知り合った人たちと、大阪城公園で花見をした。
カウンターは理解するのに時間がかかるが、だからこそ、取り組む価値があると思うのだ。
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大阪城公園で花見をした。
大阪城公園は初めてで、ましてやここで花見などしたことはなかったが、桜はかなりきれいである。
広大な花見エリアがある上に、「桜と日本建築」という最高のコンビネーションを、眺めて楽しむこともできる。
大阪で花見をするのなら、最強スポットの一つであるのは間違いがないところだろう。
一緒だったのは、カウンターで知り合った人たち。
在日の人もいて、鶴橋の名店で買い出しがされたから、「死ぬか」と思うくらいおいしい韓国料理が大量に並んでいた。
とくに凄かったのが、蒸し豚。
モソモソとしたところが皆無、実にしっとりとしていて、買い出しをしてくれた人は「これは日本一の蒸し豚だと思いますよ」と言っていたが、「そうだろう」と肯いた。
カウンターの人たちと話をするのは、ぼくにとってはとてもとても魅力的なのだが、その理由はまず第一に、カウンターには、ありとあらゆる種類の人が集まることだ。
政治や社会にもともと関心が高かった人はもちろん多いが、ぼくのように、3.11のあと、関心を持つようになった人も多い。政治に関心があった人も、左翼活動に参加していた人もいれば、右翼だった人もいる。
在日の人も日本人もいるわけだし、年齢層も、20代から60代までと幅広く、男女ともいるのはもちろん、職業も、学者から不良から、会社員、自営・自由業、会社経営者、公務員、政治家、ミュージシャンなどなど、実にさまざま。
これだけ色々な種類の人と一堂に介すのは、ぼくは中学校以来のことである。
しかもそれらの人たちが、ただ集まっているわけではない。「反差別」の一点で目的をおなじくし、路上で、ネットで、その他様々な場所で、具体的な行動をおこすのだ。
「戦友」のような連帯感が感じられ、たがいの結びつが強くなる。
もちろん、このような戦いは、本当は、ない方がいい。
しかし、深刻な被害が発生し、戦わざるを得ない以上、連帯は必要なことだろう。
といってその連帯に、カウンターの場合、組織はまったく絡んでいない。運動の中心になる団体として「C.R.A.C.」(Counter-Racist Action Collective=対レイシスト行動集団)があるのだが、これはあくまで「情報ステーション」の役割をするもので、いわゆる組織とは全くちがう。
カウンターは、組織動員されて集まる人は、皆無といっていいと思う。みんなツイッターなどの情報を得て、自分自身の意志で集まる。
C.R.A.C.に所属する人からして、運動に専従の人はいないのではないか。そもそもC.R.A.C.自体が、運動に必要な資金は、直接の寄付ではなく、クラブイベントの開催やTシャツの販売などのビジネスによって得ている。
このことが、カウンターの新しさの大きなポイントではないかと、ぼくは思う。
社会運動を組織によって運営すれば、どうしても「仕事の領域」に属するものが増えることになる。仕事はあくまで収益を生むことが前提だから、それが運動に持ち込まれれば、それによって、運動の方向性が左右されることもあるだろう。
でもぼくは、政治や社会を仕事の延長に考え過ぎていることが、いまの日本の最大の問題ではないかと思うのだ。たとえば先日閣議決定された残業代ゼロ法案にしてみても、「企業の収益を上げる」という視点で見れば、「正しい政策」になるのだろう。
それに対してカウンターは、仕事の領域を極力少なくすることで、運動を「生活」の延長に考えることを可能にしているのではないだろうか。
政治や社会を、仕事ではなく、生活の視点から見ることで、これまでとは全くちがった、新しい世界が見えてくるのではないかと、ぼくは思う。
生活の中心である「食」にぼくがこだわっていることは、そういう意味もあるわけで、カウンターの活動スタイルにはとても共感できるのだ。
それからカウンターの人たちと話していて感じることで、ぼくが「スゴイ」と思えるのは、感情と理性とを、絶妙なバランスで調和させていると見えることだ。
これまでの社会運動というと、シュプレヒコールで、たとえば「差別はんたーい」と叫ぶイメージがある。あくまでも理性的に、言論で、対抗するということだろう。
しかし在特会という、言論としてはまったく価値がない、デマのでっち上げによる差別的な誹謗・中傷をまき散らす団体が登場し、それに言論で対抗することは、ただ「バーカ」のひと言で済んでしまうわけだから、意味がないことになった。
といって、在特会による「在日特権」などのデマは拡散して支持者を増し、差別煽動の被害は拡大していくわけだから、その状況は、どうにか食い止めなくてはいけない。
そこで、「非暴力・直接行動」であるカウンターがはじまった。
カウンターは、相手の暴力的なスピーチなどにただ反対するのではなく、差別者を叱りつけ、意気消沈させることで、相手の暴力行動を具体的にストップさせる。だから言葉づかいは大変荒く、怒りの感情を爆発させる。
しかしそうして、傍からみれば「半狂乱」とも思えるほどの抗議をしながら、長くカウンターをやっている人は、同時に非常に醒めていて、状況を冷静に見ている。やり過ぎると警察に逮捕されることがあるからだ。
逮捕されるギリギリまで行きながら、寸止めで引き下がる。
ただ感情的であるのではなく、鋭敏な理性がつねに働いているのである。
「近代」とは、理性に重きがおかれる思想といえるのではないだろうか。近代の中心にある科学でも、客観的な分析が尊ばれ、個人の感情などについては、「主観的である」として分析の対象から外される。
でも現代は、その積み残された「感情」が、行き場を求めて彷徨っている時代であるようにもぼくには思え、たとえば在特会が支持を集めたのも、あの言論ではなく、感情的な物言いにあったのではないか。
理性と感情を見事に調和させているように見えるカウンターは、そういう意味でも、非常な新しさをぼくは感じ、学ぶところが大きいのである。
きのうもカウンターの諸先輩方からたくさんの話を聞かせてもらうことができ、新たにたくさんのことを学んだ。
昼から始まった花見は、夕方に終了し、さらに近くに住むメンバーのお宅へお邪魔して2次会。
12時近くの、終電ギリギリの時間にお暇した。
京都に戻って、シメは第一旭の中華そば。
カウンターは、単純なデモなどに比べると、内容が複雑で、理解するのに時間がかかる。
でも、「だからこそ、取り組む価値がある」とも、ぼくなどは思うのだ。
「親切にしてもらえてありがたいね。」
ほんとにな。
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