きのうは大阪でのカウンターに出かけてきた。
「在特会など消えてなくなれ」と、心から思うのだ。
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カウンターは、「しなくてはいけないもの」だと思っている。
差別団体「在特会」が、ウンコのような言葉を街中にまき散らす。ウンコはまず、誰かが掃除しなくてはいけない。
しかもそのウンコの差別煽動は、差別される側の人を、深く傷つけるのである。
これは差別された体験がない人にはなかなか分かりにくいもので、ある在日の男性は、在特会の差別煽動に晒されたあと、コーヒーを飲もうと喫茶店に入ったら、涙がポロポロ出てきて止まらなくなり、さらに家に帰って、何度も吐いたと言っていた。
「本当に殺されるのではないか」と恐怖を感じ、言葉が何も出なくなるそうだ。
まさに「言葉の集団リンチ」といえるもので、それは周りにいる人が、必ず止めなければいけないものだろう。
暴力行為が行われているのを知っていながら、見て見ぬふりをすることは、人間として恥ずべきことだ。
もちろんそれに、一人で立ち向かうのは勇気がいる。
しかし最近ではカウンターも、人数が集まるようになっているから、数の力で差別者を圧倒し、一人ひとりにそれほどの負担がなく対抗できるようになっている。
きのうも大阪で、在特会がデモをするというので出かけてきた。
天気は雨の予報だったが、デモが始まるころには何とか上がった。
デモ隊の人数は、40~50人。それに対してカウンターは、分散して抗議するからきちんとは分からないが、200人くらいはいたのではないだろうか。
集合場所の公園には、集合時間のはるか前から、警察官が待機している。
集合時間になるとともにカウンターも集まり始め、警官の隊列越しに抗議を開始。
本来は、不当なデモにたいする抗議は市民に認められている権利だ。警官に阻まれる筋合いはない。
だいたいあのような暴力デモを、警察が放置する方がおかしい。国際人種差別撤廃条約に日本も加盟しているのだから、差別煽動はきちんと取り締まられなければいけないはずだ。
しかし日本の警察は、差別デモよりカウンターを、より強く規制する。
それでも、「差別反対」のプラカードはおろか声を上げることすら阻まれていた2年前に比べれば、いまではトラメガも自由に使えるようになっているから、だいぶやりやすくなってはいるようだ。
カウンターの最前線では、在特会のメンバーを徹底的に罵倒する。相手は力ずくで人を傷つけようとするのだから、こちらも力が必要だ。
特にきのうは、在特会の元会長・桜井誠が参加していた。カウンターはみな口を極めて桜井誠を攻撃する。
デモ前の演説がしばらく続き、デモは出発。
カウンターはデモに併走するのだが、警察に規制されてなかなかデモ隊に近づけない。
そこでぼくは、カウンターの仲間と一緒に、裏道から先回りし、デモ隊の前に出ることにした。
そうすれば、デモ隊は自分の横を通るから、近距離から思い切り罵声を浴びせることができる。
一回罵声を浴びせると、もちろん警官にとり囲まれ、デモ隊から離れた後ろに下げられてしまう。そこで、また裏道を大きく回って、デモ隊の前へ出る。
これをきのうは、4回か5回、くり返した。
ここまでしないと差別にまともに抗議することができないのは、全くおかしな話だが、現状はそうなのだから仕方がない。
最後は解散する在特会に罵声を浴びせて、カウンターも終了した。
在特会によって吐出された毒気に当てられ、カウンターも呆然と脱力している。
あとは、酒を飲むしかない。
きのうも、一軒、、、
2軒、、、
また一軒。
酒の席で話をすれば、傷ついた心も少しだけ癒される。
でも精神的・肉体的なダメージは、翌日まで残ることも多い。
本当は、カウンターなどしなくてもいい世の中になるのが一番だ。
しかしそうなるまでは、市民の当然の義務として、カウンターは続けなければいけないだろう。
それにつけても、腹が立つのは在特会だ。
「あいつらほんとに消えてなくなれ」と、心から思う。
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