叔父が東京からきて食事をした。
男が料理をはじめるなら、やっぱり「だし」を自分でとるのが、絶対におすすめなのである。
小さいころからよくしてもらっている叔父がいて、京都へ越してきてからも、ときどき連絡をくれて会う。
親戚づきあいには興味がわかず、自分からは何もしないから、こうして来てくれ、叔父・叔母、いとこなどの近況が聞けるのはありがたい。
きのうも、
「今年は夫婦別々に、正月をすごそうということになった」
と一人で京都へきて、二人でてっちりをつつき、ひれ酒をのんだ。
京都は大雪。
雪の京都は、観光でくる人はそういつも見られるものではないから、京都好きな叔父もよろこんでいた。
子どもたちはとうに独立、叔父は夫婦水いらずの生活をたのしんでいる。孫もでき、その顔をみに岡山までいくことが、最大のたのしみになっているよう。
外資系のIT企業に長くつとめ、いまもその関係で、まだすこし仕事もしているとか。
しかしそれだけでは、暇をもて余す。
活動的な叔父は、町内会や市の仕事をあれこれ引きうけ、積極的にやっているようだ。
いつもお金を出してもらってばかりだから、きのうは去年でた『おっさんひとり飯』新装本を、サインを書いてわたした。
そこから、「料理」の話題になった。
叔父は奥さんから、
「あなたもすこしは料理でもしてみれば?」
と、発破をかけられるのだそうだ。
「でも、なかなかその気にならないんだよ」
と叔父。
男性むけの料理教室もあるけれど、
「拘束時間が長いから、いやなんだ」
とのことである。
男性が料理をはじめるのは、とくに奥さんがいる場合には、なかなかハードルが高いだろう。
毎日の食事は奥さんがつくってくれるわけだから、まず「必要性」が、あまりないし、社会的にも、上の世代の人たちは、「男は料理しなくていい」となっているから、非難されることもない。
また「奥さん」の存在は、問題をむずかしくもさせるとおもう。
奥さんは、ご主人がつくった料理に、かならず一言いいたくなるだろう。
するとご主人は、男の自尊心を傷つけられ、やる気がなくなってしまうわけだ。
しかし料理は、「人類最大」ともいえる文化だ。すべての人が、毎日料理をつくるなり、食べるなりするわけで、裾野の広さたるや、文学や音楽、芸術など、ほかの文化の比ではない。
それが人類誕生以来、100万年ちかくにわたり、営々とつづけられてきているのだから、内容として、とてつもなく幅が広く、奥行きも深い。
この巨大文化に、ただ「食べ手」としてだけで、「つくり手」としてかかわらないのは、何とももったいないことだ。
料理は、男性が「趣味」としてうちこむのに、「十分値する」のである。
男性が、どうしたら料理を「趣味」としてとらえられるかについて、ぼくはこのブログで何度も書いているとおり、ハッキリとした考えがある。
「だしを自分で取る」
ことだ。
これは、絶対にまちがいがない。
ぼく自身がまずそうだったし、ぼくの知人でめちゃくちゃ料理がうまい人に、料理にハマったきっかけをきいたら、やはり「だしを取ったことだ」と言っていた。
まだ料理をしていなかった友人に、「だしを取ってみな」とけしかけたら、その友人もまんまと、料理にずっぽりハマったということもある。
これは「だし」が、「料理の中心」だからなのだ。
どんな文化にふれる際にも、中心がわからないままでは、「おもしろさ」はわからない。
だしを化学調味料や出来合いのものにまかせてしまえば、手軽ではあっても、その中心をみすみす逃すことになる。
「趣味」としての料理は、多少、時間や手間がかかったっていいのである。
「おもしろさを感じられること」が、何よりも大切なのだ。
また自分で時間をかけて取っただしは、味もいい。調味料の分量などを少しくらいまちがえても、だしがよければ十分おいしく食べられる。
料理のもう一つのおもしろさに、
「ただレシピ通りにつくるだけではなく、自分で考えてつくること」
があげられる。ただしこれは、「失敗」がつきものだ。
自分でとっただしを使えば、この「失敗したときの被害」が、最小限ですむことも大きい。
だから叔父には、まず、
「だし昆布と削りぶしを買う」
ことをすすめた。
だし昆布は、「利尻昆布」などの最高級品である必要はなく、日高昆布くらいの中級品で十分だ。削りぶしも、自分で削るまでもなく、大袋に入ったものでいい。
3カップのだしを取ろうと思ったら、4カップの水に、まず10センチくらいの長さのだし昆布をいれる。
煮立てないよう小さな火で、10分~20分、昆布の風味がたってくるまで、ゆっくり煮出す。
つづいてザルを鍋に据え、削りぶし一つかみをいれる。
こちらも煮たてないようにして、5分煮出す。
昆布をとり出し、削りぶしをしぼれば、3カップくらいのだしが出来あがる。
このだしを使い、何でも好きなものを作ってみたらいいのである。
だし茶漬けでもうどんでも、煮物でも、これまで食べたもののなかに、だしを使ったものはいくらでもあるだろう。
ここまで話をすると、叔父は、
「でもしょうゆなどの加減がよくわからないんだ」
という。
目分量でいれてみても、なかなかおいしくならないそうだ。
それでぼくは、「調味料」についても、大ざっぱな話をした。
和食の味付は、大きく分ければ、
- 吸物
- うどんだしなどのあっさり
- 煮物などのコッテリ
の3種類。
これらにいれる調味料は、1カップのだしにたいして、ざっくりと言ってしまえば、だいたい次のようになる。
- 吸物・・・酒と(淡口)しょうゆ、大さじ1ずつ
- あっさり・・・酒とみりん、(淡口または濃口)しょうゆ、大さじ1ずつ
- コッテリ・・・酒とみりん、砂糖、濃口しょうゆ、大さじ1ずつ(さらに煮詰める)
しょうゆは最後に味をみながら加えることだけ気をつければ、この分量で、まずはそこそこおいしいはずだ。
「なるほど、意外に簡単なんだな、、、」
叔父はうなずいている。
最後にぼくは、もう一つ、とくに「奥さんのいる男性が料理をはじめる場合のコツ」を伝えることにした。
「はじめから奥さんのために作らないで、まずは一人の、内緒のたのしみにするのがいいよ」
奥さんは、文句をいうに決まっているからである。
「わかった、まずは家内が留守のときに、つくってみることにするよ」
叔父は、大きくうなずいた。
そこまで話し、叔父とぼくは、店をでた。
河原町の駅まで歩き、「そこから烏丸にあるホテルまで歩く」という叔父と別れて、ぼくは電車にのって大宮へ帰った。
まだ8時ごろだったから、もう少しだけのみたい気がした。
大宮通を上がっていくと、正月なのに、たこ焼「壺味」が煌々と明かりをつけている。
レモン酎ハイを、1~2杯のんでいくことにした。
いったん止んでいた雪が、また降りはじめている。
今年の京都は、50年ぶりの大雪だそうだ。
やがて隣に、若いカップルがすわる。
話が盛り上がり、さらにたまたまカバンにいれていた『おっさんひとり飯』を買ってまでくれたので、酎ハイを、もう一杯。
しかしそれで終わるわけもなく、女性にあおられ、「バクダン」をさらに一杯。
家に帰ると、寒いなか、冷たい酒をのんだから、体が冷えている。
体をあたためるために、熱燗をあと一杯。
そのうち記憶が朦朧としてきて、布団に入った。
相変わらずの、のみつづけ。
でもお正月なのだから、それも仕方ないのである。
「体をこわしても知らないよ。」
そうだよな。
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