「客観的な判断」が「冷静な判断」とはかぎらないのである。(鶏と根菜みそ煮込み)

2014/04/25

 
きのうは冷蔵庫にあった鶏肉と根菜で、「みそ煮込み」を作った。

鶏のみそ煮込み

これを肴に酒を飲みながら、ぼくは「客観的な判断が、冷静な判断とはかぎらない」と改めて思ったのである。


 
「みそ煮込み」は名古屋以外の全国では、「もつ煮込み」と同じ意味になっているのではないだろうか。

でもみそ煮込みは、実はもつ以外にも、「肉全般」に使うことができる手軽な料理法なのである。

 

肉は「しょうゆ」と今ひとつ相性がよくないとぼくは思う。

焼き魚にかけるように、豚の塩やきやトンカツにしょうゆだけをかけて食べても、あまりおいしくないだろう。

トンカツの場合なら、辛子じょうゆにして辛味をつけたり、ポン酢しょうゆにして酸味をつけるとおいしくなるが、肉をしょうゆ味で煮るなら「魚介だし」が必要になる。

かつお節などのだしを使うと、肉のうま味はしょうゆと合うようになるのである。

 

ところが「みそ」だと、べつに魚介だしを加えなくても、そのままでしょうゆに合う。

「豚汁」が豚肉料理の代表となっている所以である。

ただしこれが「煮込み」となると、普通のみそではうまくいかない。

八丁味噌が圧倒的にうまいのだ。

 

普通のみそは、煮込むと風味が飛んでしまう。

だから豚汁は、みそを最後に溶き入れることになる。

でも八丁味噌は、「煮込めば煮込むほどうまくなる」と言われる。

八丁味噌を普通のみそとは別に常備しておくのは、肉料理の選択肢を広げることになるのである。

 

きのうは鶏肉を八丁味噌で煮込んだのだが、いっしょに煮込む相手はやはり「根菜」がいいのである。

根菜は煮込むとうまいだけでなく、独特の苦味が肉のうまみを引きたてる。

コンニャクも、味を含ませるために入れたらいいに決まっている。

ただきのうはコンニャクがなかったので、かわりに「焼き麩」に味を含ませた。

 

みそは溶けにくいから、あらかじめ混ぜ合わせておく。

鶏のみそ煮込み 作り方

八丁味噌と、砂糖、酒、みりんをそれぞれ大さじ2、コク出しのおろしショウガを小さじ1、それに水を1.5カップである。

 

鍋にだし昆布を敷き、混ぜ合わせた調味料をいれて沸き立たせたら、具をいれる。

鶏のみそ煮込み 作り方

具はひと口大に切った鶏もも肉200グラム、3ミリ厚さくらいに切ったゴボウ2分の1本、5ミリ厚さほどに切った大根とニンジン、レンコンを3センチ長さほど、1センチ厚さくらいに切った里芋2個、それに水にひたしてよく絞った焼き麩だ。

 

落としブタをして、強めの中火で10分煮る。

鶏のみそ煮込み 作り方

アクは取らなくていいのである。

 

10分たったら落としブタを外し、上下を返しながら煮詰めていく。

鶏のみそ煮込み 作り方

煮汁がほぼ全てなくなったら出来あがりとなる。

 

器に盛り、たっぷりの青ねぎと、好みで一味か七味をふる。

鶏のみそ煮込み

煮汁をすべて煮詰めるから、味がしっかり絡みついているのである。

 

焼き麩も煮汁を吸いまくっている。

鶏のみそ煮込み

煮込みはやはり、味を吸うものを入れることがポイントだ。

 

あとは小松菜の煮びたし。

小松菜の煮びたし

前の鶏肉の煮物の煮汁で、まず油あげを煮て、塩ゆでして水にとり、よく絞った小松菜をサッと温め、火を止めて味をふくませる。

 

とろろ昆布の吸物。

とろろ昆布の吸物

お椀にとろろ昆布とうすくち醤油をいれ、お湯を注いでかつお節と青ねぎをかける。

 

野菜の皮とだし殻のじゃこ炒め。

野菜の皮とだし殻のじゃこ炒め

年末に大量にできたのを、きのうようやく食べ切った。

 

すぐき。

すぐき

すぐきを食べられるだけでも、京都に来てよかったとぼくは思う。

 

酒はいつも通りぬる燗だ。

酒はいつも通りぬる燗だ

きのうはこれを飲みながら、

「『客観的な判断』と『冷静な判断』とはちがう」

と、ぼくは改めて思ったのである。

 

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というわけで「客観的な判断」なのだが、これは今、「冷静な判断」の代名詞のように思われているところがあるだろう。

でも「客観的な判断」と「冷静な判断」とは、同じものではないのである。

 

「客観的」とは、「誰かの思いや考え、気持ちなどとは関係ない」という意味で、反対語は「主観的」だ。

「論理的に証明できる」という意味をふくみ、客観的なものの究極は、「数値で表されるもの」となる。

でも実は、客観的なものは、人間の思いや考えと離れ、独立にあるものではない。

むしろそれらに深く関わっているのである。

 

客観的なものの代表の一つに「お金」があるだろう。

企業はこれを数値化し、さまざまに判断していくことになる。

しかし「お金がいくらあるか」は、人間が数えないかぎり分からない。

お金を数える際、「自分が確信をもてる数え方」を体得しないと、何度数えても不安になるのはぼくが経験した通りである。

 

「機械に数えさせれば、人間が数える必要がない」と思うかもしれない。

でもそれにしたって同じである。

お金を数える機械は、「それがきちんとお金を数える」ということを、人間が信じられなければ使えない。

客観的に見えるものも、実は人間が「信じる」ことがあって初めて、知ることができるのだ。

 

「信じるからこそ知ることができる」のは、人間のすべての知識に言えることではないだろうか。

目で見たものを「知った」と思うためには、自分の視覚を信じている必要がある。

誰かが言ったことを「知った」と思うためには、その言った人が「信頼に足る」必要がある。

「客観的なもの」も同じであって、人間を離れてあるものなどでは「決してない」と思うのである。

 

さてそうなると、「客観的」をあまり信じてしまうと、大きく判断を誤ることがあるのではないかと思う。

ぼくはそれを、先日の「前借り事件」の際、しみじみと実感したのだ。

前借りを断られたことにより、すべての状況を思い合わせて考えても、生活資金は1月半ばで尽きてしまうはずだった。

だからあの時、もし「客観的に判断」すれば、ぼくはブログなどにうつつを抜かさず、「別にきちんとした仕事をするべきだ」ということになっただろう。

 

でも実際には、その後ちょっとして印税がすこし入った。

これはもちろん、何のことはない、出版社の編集者も印税の振りこみ予定をきちんと把握しておらず、したがってぼくも、それを知らなかったという話である。

だから神様の視点から見た、あの時の「真に客観的な状況」は、「金はいずれ入るから、何も心配することはない」だったわけだ。

でもそのことを、ぼくはあの時「決して知ることができなかった」わけである。

 

客観的に見えることでも、人間から離れてあるわけではない。

だから「その時知ることができないこともある」ことを、知っているのは大事だろう。

それを知った上でする判断が、「冷静な判断」だと思うのである。

客観的に見えているものだけに基づいて考えてしまうと、大事なことを見落としてしまうように思うのだ。

 

ぼくがあの時、「冷静である」と確信してくだした判断は、「金は何とかなる」だった。

そしてそれは、結果としては正しかった。

「客観的な根拠」などなくても、「冷静な判断」はできるのである。

「客観的であろう」とするより、「冷静であろう」とすることのほうが、よほど大事なのではないだろうか。

 

「そうやって甘く見てると、ほんとに大変なことになるよ。」

チェブラーシカのチェブ夫

そうだよな、気を付けなくちゃな。

 

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