正月は、おせち料理をいくつか自分で作って食べた。
食べながら、「和食は自分で作れば安い」と改めて思ったのである。
「正月だから」といって実家に帰る習慣が元々なかったぼくだから、京都へ来てからも、正月は京都で過ごすことにしている。
一人で正月を過ごすことは、ぼくは別に寂しいこともないし、何より京都で、京都の材料を使っておせち料理を作ることを楽しみと感じているからだ。
どこの土地でもそうだと思うけれども、京都にも、独特の正月料理がいくつもある。
正月前にしかお店に登場しない材料も少なくなく、それらを使ってみようと思えば、おせち料理を作ってみるしかないのである。
京都正月料理の代表の一つが、「棒ダラ」である。
棒ダラはそれだけで煮られることもあるけれど、これを海老芋と炊き合わせる「芋棒」は、京都名物料理の一つでもある。
年末になると魚屋では、カチンコチンに干し上げられた棒ダラが売りに出される。
一週間、毎日水を替えながら、この棒ダラをもどす作業を、京都では多くの人が家で自分でやっている。
しかし「そこまではできない」と思う人も多いのはもちろんで、そういう人のためには、魚屋の方でもどしたものを売っている。
ぼくもそれを買ってくるわけなのだが、ここからの作業も、けっこうな時間がかかるのだ。
まずは棒ダラのアクを取るため、水で10分ほど煮てそのまま冷ます。
冷めたら水を替え、一晩くらい置いておく。
次に棒ダラがきちんとかぶるくらいの、昆布とかつお節のだしを張り、落しブタに鍋のフタもし、弱い火で4~5時間煮る。
これだけの時間煮るのは、棒ダラの骨までやわらかくするためだ。
棒ダラがやわらかくなったら、皮をむいた海老芋を入れる。
今回海老芋を少なめに買ってしまい、鍋のスペースが余ったので、小芋も入れた。
だしの量を「ヒタヒタ」になるくらいに調整し、まずは酒とみりん、砂糖大さじ5くらいを入れ、30分ほど、落としブタをして弱火で30分ほど煮る。
そのあとしょうゆ大さじ4くらいを入れてさらに30分煮て、最後に風味づけのしょうゆ大さじ1を入れ、ひと煮立ちさせて火を止める。
そのあと最低一晩くらい、煮汁にひたしたままにして、味をしみさせる。
途中でひっくり返すようにすれば、味がまんべんなくしみる。
と、このように、3日がかりで作った芋棒。
棒ダラは本当に素朴な味で、モッソリとした食べごたえが、噛むほどに味わい深いのである。
このモッソリとした棒ダラに、「ねっとり」とした海老芋がまたよく合う。
棒ダラと海老芋は、まさに「名コンビ」なのである。
それからもうひとつ作ったのは、「子」とフキの炊き合わせ。
京都では単に「子」と呼ばれるようだが、これは真ダラの卵巣で、スケソウダラの卵巣である「たらこ」とはまた違うものである。
子はラップでグルグル巻にして輪ゴムでしばり、下ゆでをする。
下ゆでは、酒房京子のおかみ京子さんがしたもので、ぼくはこの下ゆで済みの子を、京子さんから年末の挨拶品としてもらったのだ。
フキも下ごしらえが必要だ。
まず葉を切り落とし、長いまま、ピーラーで筋をむく。
鍋にはいる大きさに切り、色落ちを防ぐため、まな板の上で塩をふり、ズリズリと板ずりをして塩をすり込む。
これを4~5分、フキのアクが抜けるまでゆで、水に取って食べやすい大きさに切り揃える。
鍋に昆布と削りぶしのだし2カップを張り、酒大さじ2、みりん大さじ3、うすくち醤油大さじ2で味つけする。
4~5分煮て、あとは火を止め、味をしみさせる。
紅白なますも作った。
京都だから、聖護院大根と金時ニンジンを使うのである。
大根とニンジンをできる限り細く切り、塩ひとつまみで揉んで1時間ほどおく。
よく絞り、さらに水気をふき取って、酢大さじ2、砂糖小さじ2、塩少々で和える。
お雑煮も京都風。
多めの昆布を使ってだしを取り、白みそをやはり多めに入れて、まろやかな味に整える。
下ゆでをした「頭芋」と小芋、うすく切った祝大根、5ミリ厚さほどの金時ニンジンを入れ、10分ほど煮る。
京都のお雑煮は、こうしてお餅を入れず、大きな頭芋だけで食べることも多いそうである。
元旦の朝は、これらの自分で作ったおせち、さらに魚屋などで買ったおせちで、ぬる燗の酒を飲んだ。
飲みながら、ぼくは、
「和食は自分で作れば安い」
と、改めて思ったのである。
さて「和食」なのだが、昨年末、和食が世界文化遺産に登録されたそうだけれど、これを申請した背景に、「深刻な和食ばなれ」があると聞く。
危機感を抱いた和食料理人の団体が、申請を後押ししたのだそうだ。
和食料理店の多くは値段が高く、接待などを除いては、一般の人は行きにくい。
子供たちもカレーやハンバーグなどの洋食を好み、さらに和食料理人の数も減りつつあるというのである。
和食料理店の値段が高くなってしまう大きな理由は、食材が高価だということもさることながら、「和食を作るのは手がかかる」ことなのではないかとぼくは思う。
和食は基本的にうす味だから、食材にていねいに手をかけて、アクやエグミを抜いていくことが必要だ。
なので「大量生産」に向いておらず、その分、どうしても人件費が高くつくことになるのだろう。
学校給食が「パンと牛乳」中心なのも、子供の和食ばなれの一つの原因なのだろうが、これも学校給食を和食にするのは、「手がかかりすぎる」からなのではないだろうか。
ただしそれも、家で作れば、和食は別に高いものでもないのである。
今回作った芋棒も、あれくらいの量を店で食べれば、4千~5千円はすることになる。
でも家で作れば、材料費は1500円くらいのものだ。
手間をかけることさえ厭わなければ、和食は別に、ぼくのような貧乏人でも十分手がとどくことになる。
だからあとは、家で料理に手をかけるのを、「たのしみ」と思えるか思えないかに全てがかかっている気がする。
料理を「労働」と捉えてしまうと、仕事から帰ってきて、さらに労働する気にならないことは、言うまでもない話である。
「料理をたのしむ」ということは、「生活をたのしむ」ということの、「中心」なのではないだろうか。
日本人が「仕事」ばかりをするのでなく、もっと「生活」をたのしむようになっていけば、和食ばなれは自然に解消されるのではないかと、ぼくは思うのである。
「でもおっさんみたいに、あまりに仕事しないのもどうかと思うよ。」
ほんとだよな。
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コメント
>「料理をたのしむ」ということは、「生活をたのしむ」ということの、「中心」なのではないだろうか。
>日本人が「仕事」ばかりをするのでなく、もっと「生活」をたのしむようになっていけば、和食ばなれは自然に解消されるのではないかと、ぼくは思うのである。
あけましておめでとうございます。
正に仰るとおりだと思います。
食べることは楽しいことですが、作るのも楽しい。料理は1日の中の楽しみの
ひとつですよね。