体がラーメンを欲することは、誰にでもあるとおもう。
「どうしてもラーメンが食べたい……」
居ても立ってもいられなくなり、ラーメン屋にかけ込むことも、2度や3度ではすまないはずだ。
ラーメンとは、そういうものだ。だからこそ、日本の国民食として、積年にわたって日本人の胃袋を満たしつづけている。
しかし僕の場合、京都に住んでしまった因果で、そのラーメン欲が、「新福菜館欲」に進化を遂げてしまったのだ。ただのラーメンでは気がすまない。新福菜館系のラーメンを、どうしても食べたい……。週に1度は、そう思うようになってしまった。
新福菜館は、悪魔のラーメンだ。一度中毒になってしまうと、もう抜けだすことは決してできない。
それできのうは、四条堀川にある「麺対軒」へ出かけていった。
麺対軒は、新福菜館が源流のラーメンを出す店だ。ただしそこに、独自の味をくわえている。
新福菜館欲は、わざわざ京都駅近くの本店まで行かなくても、基本を踏まえたものであれば満たすことができるのだ。
麺対軒に着いてみると、人であふれかえっている。
それもそのはず、きのうは祇園祭の宵山だった。四条堀川東入るはまさに宵山の沿道で、ラーメン欲にかられた観光客が押し寄せていたのである。
10人以上がならんでいたが、僕はそんなことは気にしない。うまいラーメンを食べるには、多少ならんだりもしないといけないことがあるのは自明の理だ。
20分ほど待って入店し、おつまみチャーシューで、まずビール。
しかし、店内はごった返している。ゆっくりと飲むためには、注文を続けることが必要だ。
そこで、次にチューハイ。
さらにチューハイ……。
何杯飲んだか忘れたほど注文した。これはお店のためだから、仕方がないというものだ。
そしてラーメン。
これを食べ、僕はきのう、麺対軒のうまさの秘密をはからずも解明した。
「新福菜館系」のラーメンを出す店は、京都駅近くの本店以外に、京都市内にいくつもある。「新福菜館」ののれんを出している店もある。
しかし本店とまったくおなじ味のラーメンを出す店は、すべてを食べ歩いたわけではないけれど、たぶん1つもないとおもう。それは新福菜館本店のラーメンが、あまりに浮世離れしているからだ。
新福菜館本店は、戦前の創業だ。戦前は、まだ化学調味料を使うことが一般的ではなかったのではないかとおもう。そのため化学調味料をまったく使わないで味を作り上げたラーメンを、新福菜館本店はいまも変わらず出している。
ところが戦後のラーメンは、化学調味料を使うようになり、「ラーメンは化学調味料の味」とすら言っておかしくないほどの時代となった。であるにもかかわらず、新福菜館本店は、相も変わらず、化学調味料をまったく使わないラーメンを出しつづけている。
新福菜館本店が、ここまで時代と乖離したラーメンを出していても、行列ができるほど繁盛するのは、まず新福菜館のラーメンの中毒性、それから京都の人の、古いものを大切にする精神が大きく働いているのはまちがいがないとして、さらに加えて、「本店」のブランドもあるのだろう。
支店や、さらに傍流の店など、そこまでのブランドがない店では、そのままではさすがに客入りが維持できない。
そこでそれぞれの店ごとに、味を独自に変えているのだ。
これまで食べた新福菜館の支店や傍流の店のなかで、味の変え方としてよくあったのが、「化学調味料とニンニク」をくわえることだ。これらはどちらも「戦後ラーメンの基本調味料」ともいえるものであるわけで、それにより、たしかに本店のラーメンよりいまのラーメンに近くなる。
ところがこれは非常な悪手で、その味を出していた河原町店はつぶれたし、三条店も、以前は化学調味料だけを入れていたところに、あるときニンニクを入れるようになり、すると1年後につぶれてしまった。
「ただ時代に迎合してはいけない」ということなのだとおもう。
麺対軒も、本店とは味を変えている。であるにもかかわらず、営業がきちんと成り立っているのはなぜなのか、僕はこれまでこのラーメンを何度となく食べながらも、よくわからなかった。
ところがきのう、
「オイスターソースが入っているんだ……」
麺対軒のラーメンを食べていて、ふと気がついた。そこで店主に聞いてみると、オイスターソースは入っていないとのことだ。しかし醤油に、魚の味がするもの、つまり魚醤を使っているとのことだった。
「これは頭がいい……」
僕はおもった。
新福菜館のラーメンに足りないのは、「魚介の味」なのである。肉じゃがをカツオだしで煮ないと一味足りなくなることからもわかる通り、肉と醤油は相性がよくない。
化学調味料のグルタミン酸やイノシン酸は、それぞれ昆布や魚の抽出成分であるわけで、ラーメンに化学調味料を入れるのは、「安価に魚介だしをくわえる方法」なのだ。
それを麺対軒では、魚醤を使うことで解決している。いい魚醤を選ぶには、ずいぶん時間もかかっただろう。
麺対軒は、もともとは親となった店があるようだから、この味を完成させたのはその店なのかもしれないけれど、いずれにせよ、新福菜館の味の変え方として「とても優れている」と、僕はおもった。
そんなことを考えながら、僕は満足して麺対軒をでた。するとまだ、宵山は佳境である。
「あと一杯だけ飲もう……」
そうおもい、僕は新町通六角東入るの、あの規格外れの出店へむかった。
すると居合わせた若者と盛り上がり、酒をおごったりもしながらガバガバ飲んでしまったのだ。
さらに帰り道、やはり飲食店ではない人たちがやっている出店につかまり、そこでもガバガバ飲んでしまった。
だいたい麺対軒で、飲んだ杯数を忘れるくらい飲んでいたわけだから、さらにガバガバ飲んでしまえば、どうなるかは自明の理だ。
家に帰り、歯をみがいているときに、ようやく意識がよみがえった。
時計をみると……。
「午前4時……」
僕はきょうは用事があり、しかも仕事も頑張らなければいけないはずだったのだ。ところが起きたのは11時。しかもフルで酒が残っているから、迎え酒をする始末。
「何でおれはこうなんだ……」
返す返すも後悔しながら、こうしてブログを更新している次第である。
「560回死んで」
そうだよな。