こないだの戦争反対のデモが居心地が良かったのは、目が政権よりも、むしろ市民に向いていたからなのだと思う。
デモは政権に向けるより、市民に向けた方がいいと思うのである。
ぼくはデモに参加したのは、このあいだ
デモをしないのはもったいないのである。(NON STOP KYOTO 2014.09.06 「NO WAR サウンドデモ」 )
でわずか2回め、素人も素人、超ド素人という話なのだが、素人は素人なりに、思うこともあった。一番強く思ったのは、
「デモは政権に向けたものより、市民に向けたものがいい」
ということだ。
ぼくはこれまで、デモというと、「政権に向けた抗議行動」のイメージがあった。官邸前で行われる原発反対の抗議行動などは、その代表というべきものだろう。
もちろん、それを否定するつもりは毛頭ないし、政権に抗議の声をきちんと届けるのは大事であり、そのために時間を費やすのは尊いことだと思っている。
でもそれを、例えば京都でやることに、どれだけの意味があるのかと思っていたのだ。
この間のデモにしても、200~300人の規模である。数万人が集まるなどといえば、政権に対してそれなりのインパクトもあるだろうが、200人規模のデモを、しかも官邸前などでなく京都でやっても、政権にとっては痛くも痒くもないだろう。
それよりは、もし抗議をするなら、相手に本当にダメージを与えることを考える必要があるのではないか。
それこそ官邸に、ミサイルでも打ち込んだ方がいいのではないかと思っていた。
でもそれは、ぼくが「デモの意義」を履き違えていたからだとわかったのだ。
政権にたいする直接の意思表明は、「選挙」で行われるものだろう。選挙は国民が政治力を行使する場で、その結果によっては、政治状況は大きく変わる。
しかしデモは、それがどんなに官邸前で行われても、政権に対して直接影響を与えられる力はない。
それではデモは、何のためにあるかといえば、国民どうしの「議論」の仕方の一つということなのだろう。
国民は、日本国の主権者だ。主権者は、日本の進む方向を決めないといけないことになる。
そのためには、それなりの情報を入手して、考え、さらに国民どうしで話し合う必要があるのは言うまでもない話だろう。
言論の自由、集会の自由が憲法で保証されているのは、そのためだ。デモが警官に守られるのは、この「集会の自由」の一つの現れなのである。
そう考えると、デモを行うにあたって考えるべきことは、「それがいかに政権にダメージを与えられるか」ではないだろう。
「デモがいかに、一般の人の支持を得られるか」
こそが大事であり、この間のデモは、それが本当によく考えられていたと思うのだ。
デモのテーマが「戦争反対」だと聞いたとき、「それはちょっと、ベタすぎないか」と、ぼくは思った。
マチコちゃんは、
「だって、戦争に反対ではない人はいないでしょう?」
と言うのだけれど、ベトナム戦争の頃ならともかく、今はもっと、「集団的自衛権閣議決定反対」とか、「安倍退陣」とか、気の利いたことがあるのではないかと正直思った。
でもぼくは、このデモのことをブログに書いたとき、
マチコちゃん達がかなりよく考えていることを悟った。
「集団的自衛権」などと言うと小難しいし、「安倍退陣」だと個人攻撃みたいになり、一般の人に角を立てずに伝えるには、「戦争反対」がとてもうまい言い方だとわかったのだ。
ちなみにこれは、今回のデモがKBSや毎日新聞京都版はじめ、メディアに多数取り上げられたことにも関係していたらしい。
マスコミも、一般の人に対して記事を書くので、「戦争反対」は書きやすいのだそうだ。
デモ当日も、マチコちゃんたちは「一般の人の共感をどれだけ得られるのか」に、事細かく気を配っていた。
シュプレヒコールも、「戦争反対」に加え、「一緒に歩こう」と、デモを見る人に呼びかけるものになっている。
「サウンドデモ」という設定で、今どきのカッコイイ音楽が次々流されるようになっていて、またプラカードや横断幕も、デモにありがちの毒々しいものでなく、可愛らしく作られている。
政治のことを何も知らない、普通の女の子が参加しても、違和感ないものだったと思う。
マチコちゃん達のデモは、デモを長くやっている人にとっても、「新しさ」を感じるものだったらしい。
デモのあとの懇親会で、「共産党員歴40年」という、60くらいの人と話したのだが、
「これからは、怒りに任せて拳を振り上げるものよりも、ああいう『野外フェス』みたいな楽しいデモが、いいのかもしれないですね」
と、感心した様子で言っていた。
ぼくは、こうして一般の人の共感を得られるデモが、どんなに小規模であっても行われることに、希望を感じる。そのデモは、必ずや、人の気持ちを動かすからだ。
その結果が、具体的に何を引き起こすかは、わからない。
でも政治に無関心であったひとりの人が、もし「興味をもつ」ことになっただけでも、それ自体、「巨大な変化」だと言えるのではないだろうか。
ぼくが20代~30代のころ、学生運動の盛り上がりはすでに終わり、あとは一部の学生や活動家が、どちらかといえば過激な活動をすることになっていた。それはそれで、気持ちはわかる。
しかし今、それとは「対極」ともいえる市民運動が、生まれつつあるのだろう。
「一般の人の共感を得ること」は、どんなことをするのにも、例えばこのブログを運営することについてだって、一番考えないといけないことでである。
市民運動が、もしそのことを中心に据えるのだとしたら、それこそがまさに「正道」であると、ぼくは思う。
「若い世代は新しいことを考えるもんだね。」
ほんとにな。
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これからの時代は「やりたいことをやる」のがほんとに大事なのである。