生活に「神様」がいるのである。(新福菜館三条店)

新福菜館三条店 京都・大阪の飲食店

昨日はぼくにとっては、「1月4日」というより、「土曜日」だったのである。

職業柄カレンダーにはほとんど関係がない生活をしているが、土曜日だけは、「新福菜館三条店の日」と決まっているのだ。

これは何も、ぼくが「意思」で決めているのでなく、「体」が要請していることだ。

体がどうしても、

「週に一度は三条店のラーメンを食べ、ビールを飲みたい」

と言うものだから、

「それでは休前日の土曜日が適当だろう」

と、ぼくは「許可」しているのである。

 

頼むものは、もう百年一日のごとく、「不動」となっている。

新福菜館三条店

まずはキムチを肴にビールを飲む。

 

そのうち餃子が焼き上がってくる。

新福菜館三条店

ビールと餃子はおかわりし、連打につぐ連打でほとんどフラフラになる。

 

最後に大盛りラーメン麺かたいめ、ネギ多いめ。

新福菜館三条店

これで完全にノックダウンされ、家に帰って2~3時間、昼寝をするのである。

 

昨日はたまたま、「ぼくのブログを見た」と言って大阪から来た人が隣り合わせることになった。

ビールと餃子、並ラーメンをサクサクと食べて帰っていったが、そうやって三条店に来る人が、これからもいるかもしれない。

並ラーメンは、普通に食べてまったく問題ないのだが、大盛りラーメンの場合には、「食べ方を間違えてしまうと全てを満喫できない」というのがぼくの考えである。

そこでこれからこのブログを見て、三条店へ行く人のために、ぼくなりの「大盛りラーメンの食べ方」を紹介しておきたいと思う。

 

並ラーメンは、具は「チャーシューと青ねぎ」だけだが、大盛りになるとそれに加えて「もやしと生卵」が入ってくる。

このもやしと生卵をどう扱うかが、大きなポイントなのである。

三条店のラーメンは、「並」で完成されている。

だから大盛りでも、まずは「チャーシューと青ねぎだけ」でその完成された形を味わうのが正しく、もやしと生卵は、あくまで「味を変える」ために入れられていると考えるべきなのだ。

 

なので初めは、生卵は脇によせ、もやしには手をつけないようにする。

新福菜館三条店

オススメなのはこのように、麺を下から引きずり出し、上に乗せてしまうことだ。

そうすると、もやしがスープのなかに沈み、味がしみることになる。

そのうち味に飽きてきたら、もやしに手をつけ、卵を溶きまぜ、さらに好みで一味やニンニク唐辛子をいれたりしながら、最後まで食べ切るわけである。

 

夜はもうお腹は空いていなかったから、軽い肴で晩酌することにした。

くわいの素揚げ

年末に、八百屋で「くわい」を買っていたから、これを素揚げにしたのである。

 

くわいは初めて買ったのだが、京野菜の一つなのだろう。

くわいの素揚げ

大きなのはていねいに皮をむいて煮るそうだが、小さなのは「素揚げがうまい」と、八百屋のご主人が教えてくれたのである。

 

水で洗って上下のヘタを落とし、水気をていねいに拭きとる。

くわいの素揚げ

 

フライパンに1センチ高さほどのサラダ油をいれて中火にかけ、かき混ぜながら揚げる。

くわいの素揚げ

 

こんがりと色づいてきたら取り出して油を切り、塩をふる。

くわいの素揚げ

 
 

くわいはちょうど、芋とレンコンの中間のような、「サックリ、ほっくり」とした食べ応え。

くわいの素揚げ

酒のアテには最高である。

 

酒はぬる燗。

酒はぬる燗

昨日はこれを飲みながら、

「日本人は、生活のなかに神様を見出す民族なのだ」

と改めて思ったのである。

 

さて「神様」なのだが、日本の宗教が独特なことについては、前々から「どういうことなのだろう」と思っているのである。

「八百万の神」だから、神様は一人でなく、そこいら中にたくさんいることになっている。

「日本人は無信仰」とも言われるが、「神様」を信じていないわけではないだろう。

年が明ければ初詣をしたり、お祭りで盛り上がったり、霊前・仏前で祈ったりと、宗教的な行事は数多い。

 

西洋の神様については詳しいことは知らないが、「聖書」は読んだことがある。

驚いたのは、「教え」がたくさん書かれていると思っていたのが、教えより、むしろキリストが、処女から生まれ、様々な奇跡を起こし、死後に蘇るという、「いかに超人であるか」について、またキリストの教えを守らない場合には、「どんな悪いことがあるか」についてのことが、大半を占めているのだ。

それを知って、ぼくは思った。

「キリスト教は、人類全体にたいする『親』のようなものをつくり出し、親が子にしつけをするように、人類をしつけようとしているのだ・・・」

親が子にしつけをするのは、人を変える方法として「一つの王道」だと言えるだろう。

 

でも日本では、そのような意味での神様を信じている人は少ないわけだ。

「神道の教え」など聞いたことがないし、「仏教の教え」についても、ほとんどの人は知らないだろう。

にもかかわらず、日本人はあまりケンカすることもなく、秩序正しく暮らしている。

本来宗教が達成しようとしていることは、きちんと実現されているようにも思うのである。

 

ぼくは昨日、このことを考えながら、思ったのである。

「日本人は、生活のなかに神様を見ているのではないか・・・」

たとえば「お雑煮」などは、神様に捧げたものを「いただく」ことなわけだから、お雑煮を作り、そして食べることそのものが、すでに宗教的な行事になる。

禅寺でも、料理をしたり、掃除をしたりすることが、「修行」の一つになっているだろう。

「茶の湯」なども、似たようなところがあるのではないか。

 

ぼくもこれまで「料理」をしながら、そのようなことを漠然と考えてはいた。

心を込めて料理をすると、「幸せ」を感じるわけだ。

「幸せ」は、宗教の目標の一つだろう。

料理はたしかに、一種の「修行」のようなものとも感じられていたのである。

 

このような日本人の宗教観は、「精神主義」と呼ばれるのだろう。

「精神主義」は、今はどちらかといえば否定的に捉えられ、スポーツの世界などでも「精神主義より客観的な分析が大事」と言われたりすることが多い気がする。

もちろん客観的な分析も大事だけれども、精神主義も、もう一度取り上げてみるのも悪くないのではないだろうか。

はっきりとは分からないが、そこに「未来への鍵」が隠されているようにも、ぼくは思えるのである。

 

「おっさんにはラーメンも儀式なんだね。」

チェブラーシカのチェブ夫

ほんとに幸せになるもんな。

 

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すべては「想いを実現」するための「過程」なのである。

「人生を創造する自由」が与えられているのである。

「マナー」として書き下せないところに奥深さがあるのである。

幸せとは「ありのままの自分を見出す喜び」なのである。

いまだかつてない「食のよろこび」を体験したのである。
 

コメント

  1. トレック より:

    クワイって芽がでてるから 目が出るって縁起物なんですよ…
    芽 全部切ってますやん

  2. 栗田三江(くんだみえ) より:

    高野さんこんばんは
    くわい素揚げは美味しそうです。ビールのアテによさそうですね。私はくわいの芽が嫌いです。くわい自体には抵抗ないのですが、煮た物にはあまり食指が動きませんでした。ところが今年お店でくわいの焼き物が橋休め程度に出てきたのです。それが香ばしくお代わりしました。まさに芋のようなレンコンのような感覚でした。不思議と焼いた場合、芽の嫌な香りも気になりませんでした。次回は素揚げでいただきたいです。塩にも拘ってみたいです。情報提供ありがとうございます

  3. 酒呑み より:

    ラーメンの食べ方のとこで、伊丹十三の映画のワンシーンを思い出しました。うまそう(^_^)

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