生活に「神様」がいるのである。(新福菜館三条店)

2014/03/03

 
昨日は昼にラーメンを食べ、夜は「くわいの素揚げ」を肴に酒を飲んだ。

新福菜館三条店

飲みながら、「日本人は生活のなかに神様を見るのだ」と改めて思ったのである。


 
昨日はぼくにとっては、「1月4日」というより、「土曜日」だったのである。

職業柄カレンダーにはほとんど関係がない生活をしているが、土曜日だけは、「新福菜館三条店の日」と決まっているのだ。

これは何も、ぼくが「意思」で決めているのでなく、「体」が要請していることだ。

体がどうしても、

「週に一度は三条店のラーメンを食べ、ビールを飲みたい」

と言うものだから、

「それでは休前日の土曜日が適当だろう」

と、ぼくは「許可」しているのである。

 

頼むものは、もう百年一日のごとく、「不動」となっている。

新福菜館三条店

まずはキムチを肴にビールを飲む。

 

そのうち餃子が焼き上がってくる。

新福菜館三条店

ビールと餃子はおかわりし、連打につぐ連打でほとんどフラフラになる。

 

最後に大盛りラーメン麺かたいめ、ネギ多いめ。

新福菜館三条店

これで完全にノックダウンされ、家に帰って2~3時間、昼寝をするのである。

 

昨日はたまたま、「ぼくのブログを見た」と言って大阪から来た人が隣り合わせることになった。

ビールと餃子、並ラーメンをサクサクと食べて帰っていったが、そうやって三条店に来る人が、これからもいるかもしれない。

並ラーメンは、普通に食べてまったく問題ないのだが、大盛りラーメンの場合には、「食べ方を間違えてしまうと全てを満喫できない」というのがぼくの考えである。

そこでこれからこのブログを見て、三条店へ行く人のために、ぼくなりの「大盛りラーメンの食べ方」を紹介しておきたいと思う。

 

並ラーメンは、具は「チャーシューと青ねぎ」だけだが、大盛りになるとそれに加えて「もやしと生卵」が入ってくる。

このもやしと生卵をどう扱うかが、大きなポイントなのである。

三条店のラーメンは、「並」で完成されている。

だから大盛りでも、まずは「チャーシューと青ねぎだけ」でその完成された形を味わうのが正しく、もやしと生卵は、あくまで「味を変える」ために入れられていると考えるべきなのだ。

 

なので初めは、生卵は脇によせ、もやしには手をつけないようにする。

新福菜館三条店

オススメなのはこのように、麺を下から引きずり出し、上に乗せてしまうことだ。

そうすると、もやしがスープのなかに沈み、味がしみることになる。

そのうち味に飽きてきたら、もやしに手をつけ、卵を溶きまぜ、さらに好みで一味やニンニク唐辛子をいれたりしながら、最後まで食べ切るわけである。

 

夜はもうお腹は空いていなかったから、軽い肴で晩酌することにした。

くわいの素揚げ

年末に、八百屋で「くわい」を買っていたから、これを素揚げにしたのである。

 

くわいは初めて買ったのだが、京野菜の一つなのだろう。

くわいの素揚げ

大きなのはていねいに皮をむいて煮るそうだが、小さなのは「素揚げがうまい」と、八百屋のご主人が教えてくれたのである。

 

水で洗って上下のヘタを落とし、水気をていねいに拭きとる。

くわいの素揚げ

 

フライパンに1センチ高さほどのサラダ油をいれて中火にかけ、かき混ぜながら揚げる。

くわいの素揚げ

 

こんがりと色づいてきたら取り出して油を切り、塩をふる。

くわいの素揚げ

 
 

くわいはちょうど、芋とレンコンの中間のような、「サックリ、ほっくり」とした食べ応え。

くわいの素揚げ

酒のアテには最高である。

 

酒はぬる燗。

酒はぬる燗

昨日はこれを飲みながら、

「日本人は、生活のなかに神様を見出す民族なのだ」

と改めて思ったのである。

 

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さて「神様」なのだが、日本の宗教が独特なことについては、前々から「どういうことなのだろう」と思っているのである。

「八百万の神」だから、神様は一人でなく、そこいら中にたくさんいることになっている。

「日本人は無信仰」とも言われるが、「神様」を信じていないわけではないだろう。

年が明ければ初詣をしたり、お祭りで盛り上がったり、霊前・仏前で祈ったりと、宗教的な行事は数多い。

 

西洋の神様については詳しいことは知らないが、「聖書」は読んだことがある。

驚いたのは、「教え」がたくさん書かれていると思っていたのが、教えより、むしろキリストが、処女から生まれ、様々な奇跡を起こし、死後に蘇るという、「いかに超人であるか」について、またキリストの教えを守らない場合には、「どんな悪いことがあるか」についてのことが、大半を占めているのだ。

それを知って、ぼくは思った。

「キリスト教は、人類全体にたいする『親』のようなものをつくり出し、親が子にしつけをするように、人類をしつけようとしているのだ・・・」

親が子にしつけをするのは、人を変える方法として「一つの王道」だと言えるだろう。

 

でも日本では、そのような意味での神様を信じている人は少ないわけだ。

「神道の教え」など聞いたことがないし、「仏教の教え」についても、ほとんどの人は知らないだろう。

にもかかわらず、日本人はあまりケンカすることもなく、秩序正しく暮らしている。

本来宗教が達成しようとしていることは、きちんと実現されているようにも思うのである。

 

ぼくは昨日、このことを考えながら、思ったのである。

「日本人は、生活のなかに神様を見ているのではないか・・・」

たとえば「お雑煮」などは、神様に捧げたものを「いただく」ことなわけだから、お雑煮を作り、そして食べることそのものが、すでに宗教的な行事になる。

禅寺でも、料理をしたり、掃除をしたりすることが、「修行」の一つになっているだろう。

「茶の湯」なども、似たようなところがあるのではないか。

 

ぼくもこれまで「料理」をしながら、そのようなことを漠然と考えてはいた。

心を込めて料理をすると、「幸せ」を感じるわけだ。

「幸せ」は、宗教の目標の一つだろう。

料理はたしかに、一種の「修行」のようなものとも感じられていたのである。

 

このような日本人の宗教観は、「精神主義」と呼ばれるのだろう。

「精神主義」は、今はどちらかといえば否定的に捉えられ、スポーツの世界などでも「精神主義より客観的な分析が大事」と言われたりすることが多い気がする。

もちろん客観的な分析も大事だけれども、精神主義も、もう一度取り上げてみるのも悪くないのではないだろうか。

はっきりとは分からないが、そこに「未来への鍵」が隠されているようにも、ぼくは思えるのである。

 

「おっさんにはラーメンも儀式なんだね。」

チェブラーシカのチェブ夫

ほんとに幸せになるもんな。

 

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