昨日はブログを更新してから、いつも行くラーメン屋で餃子をツマミにビールを飲み、ラーメンを食べ、すっかり満足して昼寝した。
夜は軽い肴で、ツイッターをしながら晩酌したが、「揚げ物は家でやるには向かない」と、あらためておもったのである。
ラーメン屋は昨日ももちろん、三条堀川を東に入ったところにある、新福菜館三条店である。
ブログを続けて見てくれている人は、重々承知のことなのだが、ぼくはこの三条店に、毎週一回、通いつづけているのである。
もうこの店のラーメンの中毒になってしまい、週に一回食べなければ気が済まない。
他のラーメン屋に浮気しても、翌日かならず、このラーメンが食べたくなってしまうのだ。
もう食べるものは決まっていて、店に入ると店員が「いっしょで?」と聞いてくるから、うなずくと、まずはビールとキムチが出てくる。
昼間からビールを飲むのが、またたまらないのである。
しばらくすると、餃子が出てくる。
この餃子が、何度食べてもおいしくて、「幸せだな・・・」という気持ちが、しみじみと込み上げてくる。
このごろでは、餃子とビールをお代わりする。
やはりこの幸せは、満喫しないといけないのである。
そして最後は、ラーメン大盛り。
うまさは超弩級であり、食べ終わったときには、あまりの満足感にもうろうとしてくるのだ。
ぼくは京都へ来てから、ほぼ毎週、この店に来ているから、もう150回は、この餃子とラーメンを食べている。
にもかかわらず、飽きることがないどころか、毎回かならず、レッドゾーン目いっぱい、メーターの針が振りきる幸せを感じるのである。
これは尋常なことではなく、
「ぼくを裏切らないのは、この店とチェブ夫だけではないか」
とすらおもう。
しかしこれはおそらく、多大なる努力のたまものなのだ。
ぼくは最初は、新福菜館の本店へ行った。
本店では2~3回食べ、どうもピンと来なかったのが、三条店ではじめてこの味の意味がわかり、感動したのである。
おそらく本店は、お客さんがたくさん来すぎて、作り方が雑になってしまっているのではないかとおもう。
三条店以外の店にも、いくつか行ったことがある。
それらはどれも、三条店の味とくらべて現代流の味だった。
三条店は、現代のラーメンとは大きくちがう味がするから、それらの店は、現代に迎合し、味を変えたのではないかとおもう。
そうしてみると、三条店が、昔ながらのラーメンを、毎回変わらず提供しているというのは、貴重である。
もちろんまず、手間を惜しまないことは必要だろう。
でもそれだけでなく、「味を変えたくなる誘惑」に、勝ち続けなければいけないはずだ。
新福菜館のラーメンは、現代のラーメンからしてみると、「異端」ともいえるとおもう。
しかしそれを、自らの特徴と思いさだめ、新しい発想や工夫などを封印し、「時代おくれ」と言われようと、相も変わらずおなじラーメンを作りつづける・・・。
これは簡単にできることとはおもえず、やはり新福菜館は、歴史と伝統の街京都のラーメン屋なのだなとおもうのである。
ラーメンを食べて家に帰り、2時間ほど昼寝したら、もう夜になった。
雑用を少しこなして、晩酌にすることにした。
昼に腹いっぱい食べたから、夜は軽めの肴である。
ただし酒を飲むときは、アルコールを分解するのにアミノ酸が使われるから、タンパク系のものをきちんと食べる必要がある。
まずは豆腐は、とろろ昆布のぬく奴。
これは寒い時期の、手軽な豆腐の食べ方としてとてもいい。
ひと口大に切った豆腐をお湯であたため、それをお湯ごと、削りぶしととろろ昆布を入れたお椀に注ぎこむ。
うすくち醤油で味をつけ、昨日はここに、小口切りにしたネギとおろしたショウガをのせた。
ツナとネギの卵炒め。
卵炒めも手軽にできる。
中火にかけたフライパンに、汁ごとのツナと斜め切りにしたネギを入れ、しんなりするまで炒めたら、小さじ1程度の酒とみりん、うすくち醤油で味をつけ、溶き卵をくわえて大きめにまとめる。
好みで七味をふって食べる。
ナスの塩もみ。
これもナスの食べ方としては最も手軽で、しかもうまい。
ナスはうすく切り、一つまみの塩で揉んで5分おき、水で洗って水気をしぼる。
昨日はうす切りのみょうが、ちりめんじゃこ、ゴマと合わせ、おろしショウガを上にのせ、ポン酢醤油をかけて食べた。
家で晩酌するときは、相手はだいたいツイッターである。
ツイッターは独り言をつぶやくためのものなのだが、その独り言に、ほかの人が返信をすることで、会話のようになることもある。
昨日は時間が早かったので、何人かの人と会話になった。
それでやり取りしているうちに、「揚げ物は家でやるには向かない」と、あらためておもったのである。
酒の肴についてのことを、つぶやいていたのだけれど、すると、
「そういえば、高野さんはあまり揚げ物とか食べませんね」
と返信があった。
そうなのだ。ぼくはほとんど、「家では揚げ物はやらない」と決めているのである。
揚げ物は、店で食べたほうがおいしいとおもうからだ。
それでそうつぶやくと、
「でも高野さんなら、お店の揚げ物よりおいしいのが作れそうですね」
とまた返信が。
そこでぼくは、少し考えた。
揚げ物が店のほうがおいしいのは、技術や工夫の問題とはちがうのである。
揚げ物は、たっぷりの油で揚げたほうがおいしい。
たっぷりの油だと、温度が安定するからだ。
でも家では、そうそう油をたくさん使うわけにもいかない。
油はそれなりの値段がするし、一人分を作るのに、油をたくさん使うのは、値段的に見合わない。
そうしたら、また別の人から返信があった。
「自宅には、お店のようにフライヤーを置くわけにもいきませんしね・・・」
なるほどそれは、その通りなのである。
お店なら、フライヤーに油を一杯に張り、次から次へと揚げ物をするのは、ラクな方法なのである。
揚げ物は、たくさん作るからこそ、効率的であることになる。
そこで思い至ったことがある。
「お店の料理と、家の料理は、根本的にちがうのだ・・・」
お店の料理を、家で真似しようとおもうと、無理が出ることになるのではないか。
お店では、少ないメニューをたくさん作るようにするのが、効率的である。
だから料理は、量をこなせるものの方が、安く出せることになる。
揚げ物は、その代表といえるのではないか。
またラーメンも、やはり量をこなすには、やりやすい料理だろう。
しかしこのラーメンも、家で作るにはまったく向かない。
時間をかけてスープをとって、2~3杯のラーメンを作るのでは、まったく割りに合わないのである。
家では、多くのメニューを、ちょっとずつ作る必要がある。
お店と家では、料理に求められることが、全くちがってくるわけだ。
だから自ずと、家には家にふさわしいメニューがある。
「料理を始めよう」とおもう人は、作るものを考えるのに、まず「お店で食べたもの」を思い浮かべることになるのではないだろうか。
もちろんそれは悪くないし、何でも自分が好きなものを作ったらいいのである。
でももしそれに疲れたら、家には家の、やりやすいやり方もあるのだということを、覚えておいて損はない。
昨日はそんな話をツイッターでして、12時頃に布団に入った。
いつも寝るのは2時頃だから、12時はだいぶ早いのだが、朝型の生活に切り替えたいとおもっているのである。
でも昨日は変な時間に昼寝をし、さらに前日、8時間も寝ていたから、なかなか寝付けず、さらに寝たと思ったらすぐ目覚め、目がパッチリと冴えてしまったから起きだした。
それで2時間ほどあれこれしていたら、眠くなってきたからまた寝たら、目が覚めたのは10時過ぎ、まったく朝型にはならなかったのである。
「年寄りは寝るのも苦労するね。」
まったくだよ。
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新しい土地になじむには、その土地を好きになることに尽きるのである。
コメント
はじめまして。マコこと申します。
年齢はたぶん高野さんと同じ。東京在住の主婦です。
私が高野さんのブログを知ったきっかけは
ネット上で京都での美味しいもの探しをしていたときです。
その後、広島旅行の際ネットをウロウロしていましたら
またまた高野さんのブログに遭遇しました。
ネット暦は長いですがこんな事は珍しく、
これは何かの縁かと(笑)。
毎年一回は京都へ旅行するようになって
8年ぐらいたちました。
母との旅行だったり夫とだったりするので
なかなか自由な時間がとれませんが、
高野さんとお酒をご一緒したいなぁと思ってます。
高野さん、初めてコメントを入れさせていただきます。以前からこのブログは毎日拝見させていただいております。このブログを見てから料理に興味がわき今年に入ってから自分で料理するようになりました。自分なりに工夫しながら料理をするのは楽しいですね。頭の体操になるといいますか少しずつ効率よく料理ができるようになりました。
先日の”しめさば”を見まして初めて自分でしめさばを作りましたがこれが自分で言うのもなんですが美味くできて食べながらびっくりしてしまいました。こんなものが自分で作れるのか!!と。これからも参考にさせていただきたいと思いますので宜しくお願いします。京都に行くことがありましたらスピナーズ等お邪魔させていただきたいと思っています。
いいですね(^o^)