古いしきたりこそが未来を拓くかもしれないのである。(酒房京子、スピナーズ)

2014/04/23

 
東京の友人が訪ねてきて四条大宮で酒を飲んだ。

酒房京子

古いしきたりこそが、未来を拓くかもしれないのである。

 

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相変わらず飲みつづけているのである。

きのうは東京の友人が「京都へ来るから」と前々から約束していて四条大宮へ飲みに行った。

今日も午後、立ち飲みの取材があって飲むことになっていて、この飲みつづけ具合は我ながらすごいものだ。

ここ一週間ほど仕事をする時間をほとんど取れず、そうなるとぼくの場合、カネが尽きる危機の予感が日に日に色濃くなっていくことになる。

飲みになど行かずにまじめに仕事したほうが身のためであるには違いないが、このところの飲みの案件は、いずれも「どう考えても飲まないわけにはいかない」ものばかりである。

ならば下手に安全策など取らないで、徹底的に飲むまでだ。

 

友人をどこへ案内しようかいろいろ考えてはみたが、やはり府外の人を連れていくなら、四条大宮では「酒房京子」が一番だ。

酒房京子

京風の洒落た料理を手ごろな値段でたのしめて、さらに女将の配慮が細かなところまで行きとどく。

酒房京子もこのところ、連発しているわけなのだが、出てくるものは日によってちがうから、飽きることもない。

 

きのうもまた、うまいものをあれこれ食べた。

まず若竹煮。

酒房京子

これはこの時期、黄金のメニューだろう。

 

ホタルイカの酢みそ。

酒房京子

うどと合わせてある。

 

たたきゴボウ。

酒房京子

 

わらびの煮物。

酒房京子

 

鯛のあら炊き。

酒房京子

かけられているのは木の芽。

 

アジの酢の物。

酒房京子

酢じめにしたアジを酢の物にしてある。

 

ニラのオムレツ。

酒房京子

 

冷奴。

酒房京子

 

白みそ汁。

酒房京子

うどと油あげ、かまぼこなどが入っている。

たっぷりの昆布でだしを取り、からしが少し利かせてあって、浮かべられているのは山椒。

 

ちなみにこの山椒の茎を取るのは、ぼくと友人とで手伝ったのである。

酒房京子

 
 

友人とは酒を飲みながら延々と話をし、そのあとバー「スピナーズ」へ移動してさらに話した。

スピナーズ

話しながら、「古いしきたりこそが未来を拓くかもしれない」と思ったのである。

 

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ブログを見てくれている友人は、

「京都の人づき合いのやり方はすごいね」

という。

京都の人が、他人を受けいれ、折合いをつけていく様子が興味深いのだそうだ。

実際の話、それにはぼくも舌を巻いているのである。

 

京都の人が人に接するやり方の特徴は、「強制をしない」ことではないかとおもう。

たとえばバーでも、「どのようにふるまったらいいか」が「マナー」として表現されることはあまりない。

マスターに聞いても、「いやマナーなどべつに何もないですよ」と言われるだけだ。

でもバーに「お客の好ましいふるまい方」があるのは言うまでもないわけで、ぼくのようなよそ者が京都のバーで、それに反するふるまいをすることは少なくないだろう。

そういうとき、京都の人は問題点を表立って指摘することをしない。

ただ冷ややかに、距離をおくのである。

 

こちらとしては、その反応を見ながら、

「何がいけないのだろう」
「どうやったら受け入れてもらえるのだろう」

と考えることになる。

ああやってみたり、こうやってみたりと試行錯誤する。

やがてそのうち、「こういうことか」と気付きがあり、それが京都の流儀とヒットすることがある。

 

京都の人は、その試行錯誤を、距離をおきながらも「見ている」のである。

そしてこちらが「たしかに京都の流儀を見つけた」と判断すると、距離をちぢめ、親しげな様子をする。

するとこちらは、「受け入れてもらえて嬉しい」となるのである。

 

地域の流儀をこのようなやり方で教育するのは、時間と根気が必要だろう。

「マナー」にしたがい、問題点を指摘して矯正することのほうが、時間も手間もかからないに違いない。

でもこのような面倒なプロセスを経ることで、教育される側は「自分の意志で見つける」猶予をあたえられることになる。

自分の意志で見つけたことは、他人に指摘されたことより、はるかに自分のものになるだろう。

 

さらにこのやり方だと、「言葉でうまく表現できない」ことも伝えることが可能となる。

たとえばバーのマナーなら、京都では、東京のようにほかのお客さんには「話しかけてはいけない」のでもなく、また大阪のように「自由に話していい」のでもなく、「空気を読んで話しかける」ことになる。

その「空気」とは、まずお店が「自由に話す店」なら自由に話すし、「あまり話しかけてはいけない店」なら、あまり話しかけないようにする。

またそのお客さんが、「話しかけられたいと思っているなら話す」し、「ひとりで飲みたいと思っているなら話さない」となる。

さらに話題も、その人のプライベートに立ち入りすぎず、またお店で他の人が話している内容にうまく沿っている必要がある。

以上が「京都のバーで『好ましい』とされるふるまい方」なのだが、これを「マナー」として効果的に表現するのは、あまりに複雑すぎて難しいのではないだろうか。

 

この京都での教育法の効果がじつに高いことは、「女性の服装」に一つの証拠が見られるのではないかとおもう。

京都の女性は、明らかに「旅行者」などという例外をのぞいては、みな大人しい、品のいい服を着ているのである。

 

これには「京都流の女性の服装」があるのだそうだ。

知り合いの女性はパーティーへ行くドレスを試着しながら、

「この派手さは京都的にはナシだけど、パーティーは大阪であるからいいか」

という言い方をしていた。

しかしここで不思議になるのは、京都には大学も多いから、京都の街を歩いている若い女性の多くが、京都以外の出身者だろうということなのである。

他府県出身の女性なら、京都の流儀に沿わない服を着ていてもおかしくはなさそうだ。

 

でもそれが「ほとんどいない」ということが、京都流教育の効果をしめしているのではないか。

おそらく他府県から京都へ来た女性はみな、ぼくがバーで教育された、そのおなじやり方で教育されていくのだろう。

 

そんな話をしていると、友人は、

「それはこれからの都市生活の手本になるかもしれないね」

と言う。

「京都は都市生活の歴史がどこよりも長いから、都市で心地よく生活するための知恵が膨大に蓄積されているのではないか」

とのことなのだ。

 

東京大田区で生まれ育った友人は、

「自分が育ったところでも、30年前くらいまでは古いしきたりが残っていた」

と言う。

それが今では全てなくなり、「基本的に他人とは関わらない」という殺伐とした空気が支配するようになっているそうだ。

「高野さんが東京を離れたこの10年で、状況はさらに悪化した」

とも友人は言う。

このままでは「居心地のよい都市生活」には程遠く、何か大きな変化が必要ではないかとおもうが、それを人があまりに多すぎる東京で生み出すのはむずかしいだろう。

「京都をはじめとした『地方都市』からの発信がきっかけになるかもしれないね」

と言うのである。

 

たしかに地方都市には現在でも、その土地のしきたりや流儀が色濃くのこっているだろう。

しかしそれらは、「古臭い」のひとことで一蹴されてしまいがちなのではないか。

 

「大きな変化」があるのかどうか、ぼくにはよくはわからない。

でも友人と話をしながら、

「古いしきたりや流儀を見直すことが、未来を拓くことになるのかもしれないな・・・」

酔った頭で、ぼくはあらためて思ったのである。

 

「ぼくはみんな可愛がってくれるよ。」

チェブラーシカのチェブ夫

おまえは人気者だよな。

 

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◎おっさんひとり飯

 

◎チェブ夫

 

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