50をすぎると「死」は身近になるのである。(新福菜館三条店)

新福菜館三条店 京都・大阪の飲食店

 
昨日はラーメン屋でビールを飲み、さらに軽いつまみで晩酌した。

新福菜館三条店

ダラダラと飲みながら、「50をすぎると死は身近になる」と、改めて思ったのである。

 
一昨日朝まで飲んだため、昨日は起きたのがもう昼だったのである。

ぼくの場合自由業だから、遅く寝ると、その分きっちり遅く起きることになる。

よく「遅く寝ても、毎朝決まった時間に起きるといいのに」と言われるのだが、だいたい目覚ましをかける気がしない。

自由業になって何がうれしいと言ったって、一番なのは、「目覚ましをかけなくていい」ことなのである。

 

しかしこの「朝起きる時間」は不思議なもので、毎日決まった時間に寝ていても、起きる時間はマチマチになる。

寝てから6~7時間後を中心として、前後に1~2時間のブレが出るのだ。

また体調も、特別な理由がなくても、いい時もあれば、わるい時もある。

こうして自分の体調に敏感になれるのも、自由業の特権だろうと思うのである。

 

そういうわけで、昨日は昼に起き、それからブログを更新したから、ラーメン屋へ行ったのは夜だった。

新福菜館三条店

本当なら、ビールは昼から飲みたいのだが、自分が前日遅かったのが悪いのだから、仕方がない。

さらに本当は、毎日昼から飲みたいのだが、ぼくは酒がそれほど強くないために、飲むとそのあと仕事ができなくなってしまう。

中島らもや高田渡などのように、朝から酒を飲みつづけ、50代で死ぬのが理想なのだが、それはどうも、果たせぬ夢のようである。

 

ラーメンは、昨日もうまかった。

新福菜館三条店

このラーメンがうまいのは、もうほとんど「地球は丸い」などというのと同じように、「客観的な事実だ」と言ってもいいのではないかという気すらする。

食べなくても「うまい」と分かっているのなら、もう食べなくても良さそうなものであるが、そういうわけには行かないことは言うまでもないのである。

昨日もこれを食べ、死ぬかと思うほど満足し、家に帰って1時間ほど「夜寝」した。

 

夜寝から覚めたら、もう晩酌の時間である。

遅く起きると一日があっという間だ。

軽いつまみで、さらに酒を飲むことにした。

軽いつまみで晩酌

つまみは冷奴とじゃこおろし、それにすぐきにした。

 

前日遅くまで飲んでいたから、昨日もなかなか眠くならず、結局1時過ぎまでダラダラ飲んだ。

飲みながら、ぼくは

「50をすぎると『死』は身近なものになる」

と、改めて思ったのである。

 

さて「死」なのだが、若い人と「死」の話をすると、だいたい嫌そうな顔をする。

若いうちは、「自分が死ぬ」というのを想像することもできないだろう。

以前話した30代の男性は、
「自分が死ぬのは、天変地異か不慮の事故以外に思いつかない」
と言っていた。

もちろんぼくも、30代の頃はおなじであった。

 

でもこれが40代も半ばをすぎると、話は違ってくるのである。

話をすれば、だいたい一度は「死に方」の話題が出る。

またこれが、盛り上がるのだ。

さらに50をすぎると、今度は「病気」の話題で盛り上がることになる。

 

ぼくは自分のことをいえば、もう「いつ死んでもいい」のである。

それが「明日」であったとしても、何の不都合も感じない。

やりたいことがないではないが、それは「生きているから仕方ない」という話であり、もう生きなくていいのなら、無理にしなくてもかまわない。

とにかくあとは不義理をなくし、「きれいに死ぬ」のが人生最後の目標だ。

 

目安としては、「65歳」と思っている。

これも何歳でもいいのだが、「60歳」というと「早すぎる」と言われるから、65歳にしているだけである。

きついタバコを毎日スパスパ吸っているから、どのみち肺がんになるのではないか。

がん検診の無料券が来たのだが、もちろんのことそれは捨て、健康診断も、これまでいつも「問題なし」の結果だし、どうせこれからも問題ないだろうから、もう受けないことにした。

 

だいたいぼくに言わせれば、がん検診など「必要がない」のである。

ぼくは「本能主義」で、
「生きていくために必要なことは、本能が感じ取るようになっている」
と信じている。

だからもし初期がんが、自覚症状がないのなら、それは「分かる必要がない」のである。

自覚症状が出てきたときには手遅れになっていたのなら、それは神様がお迎えに来てくれたというわけだから、ありがたく従うまでなのだ。

 

しかしそういうことをお医者に言うと、だいたいいつも、
「そう都合よく行きますかね」
とニヤッとされる。

「そういうことを言っている人に限って、長生きするものなんですよ」
と言うお医者もいる。

自分が80まで生きるなど、全くゾッとするのであるが、もしそれが「定め」であるなら仕方がない。

しかしできれば、少し早めにお役御免にしてもらいたいと、神様にはお願いしたいところなのである。

 

「生きてるうちは頑張らないとね。」

チェブラーシカのチェブ夫

そうなんだよな。

 

 

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◎関連記事

自分の「本能」を信じることが大事なのである。

アホにはアホなりの生き方があるのである。

50を過ぎたら早く死んだほうがいいのである。

ぼくは酒を飲むために生きているのである。

ぼくの幸せは、これなのである。
 

コメント

  1. 栗田三江(くんだみえ) より:

    高野さんこんにちは
    死ぬ時に自分の人生に後悔しなければ「良い死に方」といえるのではないでしょうか。若い頃から多くのヒトに必要とされ、良い影響を与えていても「後悔しない死」とならないと考えます。不慮の事故で思いを残して亡くなる場合もですが、健康診断を受けず癌が全身に転移して苦しみながら亡くなる場合もしかりです。勘?自覚症状に頼るのは危険なような気もします。健診を受けていても進行の早い腫瘍であっけなく亡くなったという場合は「後悔しない死」に近いような気もします。一番悪い亡くなり方は自殺です。最悪でしょう。残された者は「死」を受け入れられません。何年経っても傷が残ります。

  2. zen より:

    私も一緒の考えです。

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