檀一雄『檀流クッキング』は、数ある料理本のなかでも「頂点に位置する」といえると思う。読んで、作ってみることで、料理が好きに、そして上手くなる。
料理本は数あれど、檀一雄『檀流クッキング』は、その頂点に位置すると言ってもいいのではないか。
まず第一に、「作家が書いている」ということ。文章が、趣きがあることこの上ない。
料理本とはいえ、やはり本。読み物なのだ。その読み物としてのクオリティが、この本はきわめて高い。
しかし、作家が書いた料理本は、ほかにもある。池波正太郎などいいのもあるが、あまり面白いと思えないものも多い。
それは、「食」にたいする考え方なのだと思う。
食は、人間にとってはすべてに優先する、いちばん大事なものなのだ。人間は何はともあれ、まずは食べなければ生きていけないわけだから、それは議論の余地がない。
その食を、「ちょっとおしゃれ」とか、「一風変わった」とかいうようにして捉えるのは、やはり考えが浅いのだ。
その点、檀一雄はハンパがない。何しろ無頼派で、女優との浮名も流した人だ。自分の欲求を追求することには貪欲なのだ。
檀一雄は日本各地、さらには世界各地を放浪したことで知られる。ある日ぶらっと家を出たら、そのまま半年、帰らなかったこともあるそうだ。晩年には1~2年、ポルトガルにも滞在した。
その理由が、「各地の食市場を訪ね歩き、食べ物を食べてみたい」というのだから、オドロキだ。しかもその放浪を、作家としての仕事をしながら終生続けたのだから、頭が下がる。
『檀流クッキング』には、檀一雄のその食にたいする情熱が、余すことなく込められている。
「食べることの喜び」を、あらためて思い出させてくれるのだ。
食にたいしてそれだけ飽くなき情熱を抱いた人だから、料理の腕もとうぜんスゴイ。
何しろ両親が離婚して、9歳から家族の料理を作ってきた人なのだ。それが食への欲求に導かれ、古今東西、日本の料理はもちろんのこと、韓国・中国などアジア、ロシア、インド、ヨーロッパ、アメリカなどの料理を縦横無尽につくりまくる。
もちろんそれら外国の料理は、レシピで覚えたものではない。すべて現地で実際に食べ、料理人に作り方を聞いたりしながら覚えたものなのである。
この人が、料理を職業にしなかったのは不思議なことだ。料理屋を開こうともせず、この『檀流クッキング』をふくめ、料理に関する本を3冊きり出しただけ。
自分、および家族や友人のためだけに料理を作る、まさに檀一雄は「自炊料理人の神様」なのだ。
『檀流クッキング』は、3冊の料理に関する本のなかでも、ほぼ唯一のレシピ本。サンケイ新聞に2年にわたり、「主婦向け」に連載されたそうだ。
大したページ数もないこの本に、檀一雄の料理にかんする技量のすべてが詰め込まれているといえる。
この本を読まずして、料理を語ることはできないとすら、いえると思う。
まずはこれを読み物として、読んでみるのがおすすめだ。それだけで、檀一雄の料理にたいする熱い思いが伝わって、料理をしていなかった人はしてみたく、またしている人は、料理がさらに好きになるはず。
そしてもちろん、さらに書かれている料理を実際に作ってみるのがいい。これがスゴイのだ。
檀一雄は、出来上がりの料理の味を、書いていない。だから掲載された料理の味は、自分で作ってみて、はじめて分かる。
これが、ビックリするほど繊細なのだ。
「なるほど、檀一雄はここまで考えていたのか」と、思うことしきりのはず。
だから『檀流クッキング』は、読んで、さらに作ってみて、はじめて全てをくみ取ったことになる。こんなに良くできた本は、そうそうはないと思う。
ただし欠点が、一つだけあるにはある。調味料の分量などが、細かくは書かれていない。
だから料理に慣れない人は、何をどのくらい入れたらいいか、「分からない」と思うかもしれない。
これは、檀一雄も計っていないのだ。計っていないものは、書きようがないのは道理だ。
でも分量が書かれていなくても、文章の力量がすごいから、文脈から、どれくらい入れたらいいか、だいたい感じることはできる。料理にある程度慣れた人なら、それでおいしく作れるはず。
料理をしたことがない人は、とりあえず読むだけ読んで、作るのは先の課題としても、悪くはない。
この『檀流クッキング』が、720円(税込)。
それで料理が、1段も2段も好きに、そして上手くなるのだから、安いものだ。