『量子力学の冒険』は、『フーリエの冒険』につづいてやはり指導していたカレッジの学生たちと一緒に作った。
たとえ文系出身で予備知識がなかったとしても、「量子力学に興味がある」という人は、挑戦してみて悪くないと思うのである。
いちおう「理工学部建築学科」を卒業しているのだが、高校までは文系だった。それがなぜ理工学部へ行ってしまったのかといえば、付属の高校だったのだ。大学へ上がるためには試験がなく、希望の学部を書くだけだった。成績が上の者から希望が叶い、定員が埋まってしまえば、成績が下がるにつれて第二希望、第三希望に振り分けられる。
高校時代の成績は「落第ギリギリ」だったから、定員のない商学部へいく予定にしていた。友達も、商学部へ行った奴がたくさんいる。それが気まぐれで、「建築学科」と第一希望に書いてみたら、その年はたまたま成績のいいのが希望しなかったということだったろう、まちがえて通ってしまった。建築に特に興味はなかったから、卒業するのに本当に苦労した。
そういうわけで、数学や物理が元々好きだったわけではない。どちらかといえば「苦手」だったのだが、そのおもしろさを知ったのは、行くことにしたミニカレッジの課題図書としてW.ハイゼンベルク著『部分と全体』を読んだことがきっかけだ。
『部分と全体』は量子力学建設の立役者の一人、ハイゼンベルクが自らまとめた一種の「手記」だ。20世紀のはじめごろ、「量子力学」は約30年をかけて形づくられた。ハイゼンベルク本人も、そこで「ホームラン級」の発見を2つもしているのだけれど、ほかにもアインシュタインをはじめとして、ボーアやパウリ、ディラック、シュレディンガーなどなど、多くの立役者たちがいる。
『部分と全体』には、ハイゼンベルク自身の体験、およびそれら多くの物理学者と「話したこと」が書いてある。実にドラマチックで、ハイゼンベルク自らの発見の場面では、23歳のハイゼンベルクはあまりの興奮に眠れなくなり、岸壁の突端によじのぼって朝日を待ったと書いている。またハイゼンベルクの師ボーアと、ハイゼンベルクにとっては「宿敵」となったシュレディンガーの、世を徹した討論にも息がつまるような心地がする。
何度も読んでいるうちに、細かな意味は定かにはわからぬながらも、ハイゼンベルクとその仲間たちは、すっかり自分の「友達」になってしまった。
カレッジのほかの学生たちもおなじだったから、『フーリエの冒険』の製作が終わってから、「次に何をやろうか」の相談をしたときに、皆が「量子力学をやりたい」と口をそろえたのは必然だったといえるだろう。
量子力学は、それまでのニュートンによる「力学」を拡張したものなのだが、ニュートン力学とは大きくことなる、特異な世界観がある。「量子」は電子や光子などの総称だが、それらは「あるときは粒、そしてあるときは波」としてふるまうというのである。
粒と波とは、本来は両立しえないものだ。粒は空間の一点にかたまっているのに対し、波は空間全体に広がっていくことができる。ニュートンの力学でも、それらは「別のもの」として説明される。
ところが量子は、はっきりとした実験の結果から、あるときは粒、そしてあるときは波としてふるまうと、「理解しなければならない」ということになった。当時の物理学者たちの苦闘も、一番は「これをどう理解できるか」にあるのだが、「量子力学の冒険」でも、数学の難しさもあったけれど、むしろこちらが難関だった。
でもそれも、若い学生のひとことで、突破していくこととなった。
量子の波は、一般には「確率波」といわれる。これがどうもわかりにくいと思っていたところに、
「それは『可能性』のことではないか」
と言うのである。
それを聞いた瞬間に、一気に風景が見えた気がした。量子という、目にも見えないミクロの世界を、「自分」に置き換えて考えることができるようになったからだ。
自分のことを考えてみれば、時間がたてば、可能性は広がっていくだろう。「人生」という時間のスパンで考えてもかまわないし、もっと短い時間でもいい。たとえば今、ここに座っているとして、「次にどうするか」について、考えれば考えるだけ、可能性はたくさんある。そのまま座りつづけてもいいし、トイレにいくとか、水を取りにいくとかいうこともある。
ところがあるとき、実際に行動を起こしてみると、多くの可能性のうち、どれか一つが選ばれることになる。他の可能性はなくなったわけだから、行動を起こしたとき、可能性は「縮まった」ことになる。
「人間が生きていく」とは、このようにして考えれば、可能性が広がったり、そして行動を起こしてそれが縮まったり、することの連続となるわけだが、「量子もおなじだ」ということだ。
ただしもちろん、量子は「意思」を持ってはいない。自ら行動を起こすことはないのだから、可能性が縮むのは、行動によってではない。
では何なのかといえば、人間の「観測」だというのである。
人間が量子の位置を特定するため、そのための装置を組み、実際に観測を行うと、量子はそこに粒としてあらわれ、可能性は縮むのだ。それにたいして観測を行っていないときには、量子は波としてふるまい、可能性の波が広がっていく。
人間が観測をするかしないかによって、量子はそのふるまいを変えるという量子力学の不思議な性質が、何とか自分たちなりに理解できるようになっていった。
『量子力学の冒険』は、『フーリエの冒険』よりは少ないが、これまで10万部くらいは出ているのではないかと思う。やはり英語に訳されて、日米の多くの学校で教科書としても採用された。
『フーリエの冒険』よりは数学的には手ごわいが、それでもまったくの文系で、予備知識がない人が、これを最後まで読み、「量子力学が理解できた」という話も多く聞く。
もし量子力学に「興味がある」という人は、挑戦してみるのも悪くないのではないかと思う。
「世の中不思議なことがいっぱいあるね。」
ほんとだな。
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