サンマにつづき、いよいよサバが旬に入った。
サバを食べるなら、やはりまずは、「しめサバ」なのである。
本題に入るまえに、少し前置きなのだけれども、「幸せ」についてである。
昨日の記事にはコメントを色々もらい、どれも「なるほど」と読ませてもらった。
ぼくは今の時代は、「幸せとは何か」が、考えるべき一番大事な問題なのではないかとおもう。
なぜかというと、このことが、今は見えにくくなっているとおもうからだ。
バブル以前の、日本の高度成長期には、日本人にとっては「幸せ」は、わりとわかりやすい形で存在していたとおもう。
それは、
「いい大学を出て、いい会社に就職し、すてきな相手と結婚して家を買い、子供を作って、幸せな家庭をきずく」
というものである。
これはぼくの親の世代が本気で信じ、子供を教育する際にも、最も重視したことだとおもう。
ただこれはその後、そうやって育てた子供がグレたりして、「ほんとにそれが幸せなのか」という疑問を生み、さらにバブルが崩壊し、就職から結婚、家を買うこと、すべてがむずかしい時代になって、現在では、これが日本人の「共通した夢」であるとは言えないことになっている。
そのような、強力な「幸せのステレオタイプ」がなくなった今、「幸せとは何か」は、一人ひとりが考えざるを得ないことになっている。
幸せは、「人生の目標」になるからだ。
その際、最も考えないといけないことは、
「そもそも『幸せ』とはどういう性質のものなのか」
だとおもう。
それを間違えてしまうと、ステレオタイプがなくなった今、「幸せが見つからない」と、人生に迷うことになりかねない。
バブル以前、幸せは「一般的に存在する」もののように思われていた。
あたかも幸せが「物」であるかのように考え、お金を出せば買えるかのように思われていたところもあったとおもう。
でもそれは、あまりにも多くの日本人が、共通しておなじ夢をもったからで、「幸せ」は本来、一般的に存在するものではないと、ぼくはおもう。
幸せは、一人ひとりが、「実感」として感じるものだ。
コメントで、「好きな人と食事をするのは幸せ」というのがあり、ぼくもまさに、そうだとおもう。
好きな人と食事をすると、一人で食事するのとはケタちがいの幸せを感じることは、ぼくも十分経験している。
また「プラスアルファが必要」というのも、やはりその通りだとおもう。
ぼくが餃子とラーメンであれほど幸せになれるのは、あのラーメン屋の雰囲気や、「昼からビールを飲む」背徳感とも、大きく関係しているだろう。
それからぼくは、「料理を作る」ことにも、実はかなり大きな幸せを感じる。
プラモデルを作るのと似たようなところがあり、時間にいっさい束縛されず、「思う存分手をかけるぞ」と決めたときなど、酒のいきおいも手伝って、恍惚となるほどだ。
だからぼくは、「飲食」と「恋愛」こそが、自分の幸せの源泉だとおもい定め、それを中心にすえて生きていこうと、こうしてブログをやったりしているわけなのだ。
でもそれはもちろん、あくまで「ぼくの」話であり、それぞれがそれぞれで、「自分の幸せ」が何かを見つけ、生きていけばいいことである。
さて本題だが、「サバ」である。
サバがいよいよ、旬に突入したのである。
ぼくは魚のなかでは、サバが一番好きなのだ。
これは「京都」も、もちろん多分に影響がある。
京都の人は、サバが好きで、魚屋の若大将も、「サバ」となると眼の色が変わるのだ。
歴史的に、サバは京都に生にちかい形で入ってきた、数少ない魚のうちの一つだったからだろう、サバ寿司は京都の名物になっているし、しめサバは「きずし」と呼ばれ、京都の人の大好物だ。
ぼくもそれに影響されて、京都に来てから、サバをよく食べるようになった。
しめサバを自分で作るようになったのも、京都に来てからのことだ。
ただぼくは、それ以前でも、寿司ネタのなかでは、しめサバが一番好きだった。
マグロはくどすぎ、白身の魚はあっさりし過ぎているけれど、しめサバはその両方を兼ねそなえた、ちょうどいい味だと思うからだ。
またしめサバは、手をかけないといけないから、職人の技術のよしあしが、はっきりと出る。
寿司屋へ行くと、ぼくはしめサバを食べ、その味によって、「自分好みの店かどうか」を決めている。
しかしサバは、面白いもので、刺身で食べてもそれほどおいしいとはおもえない。
高級サバは知らないが、ぼくは広島にいたことがあるから、活きのいいサバの味も、そこそこは知っている。
でも活きがよくても、サバは刺身で食べると、どうも味がはっきりせず、印象が残らない。
ところがサバは、塩と酢でしめると、大変身するのである。
とたんに他の魚とは全くちがう、「ならでは」のものになる。
「しめサンマ」「しめイワシ」とはあまり言わず、青魚のなかでもサバだけに、酢じめの「しめ」が付くことも、サバと酢じめの相性が、それだけよいということだろう。
というわけで、しめサバを作るのだが、これは三枚におろし、塩を振るところまで魚屋にやってもらえば、何の苦もなく出来てしまう。
スーパーで、しめサバ用のサバを買い、自分で塩を振るばあいでも、粗塩を指のすき間から、表と裏にまんべんなく振りかけるだけだから、それほどむずかしい話でもない。
塩を振ったら5時間おく。
これは都合で5時間以上になっても、全く何の問題もない。
次に、サバを水でさっと洗ってペーパータオルで水気をふき取り、酢につける。
酢にはカドをとるため、小さじ1ほどの砂糖を溶かし、いっしょに5センチ角くらいのだし昆布を入れる。
この酢につけ込む時間は、しめサバの味を大きく左右することになる。
ネットを見ると、短いのは30分から、長いのは2日間というのまである。
ぼくがお世話になっている魚屋の若大将がすすめるのは、「3時間」である。
ぼくはいつも、その時間でやっている。
3時間して酢から上げたら、ペーパータオルで酢をぬぐい、皮をはぐ。
これは頭の側から指でつまむと、わりと簡単に「ピーッ」とはがせる。
それから裏に返して、中骨を抜ければ抜く。
ただこれは、うまく抜けない場合が多く、サバの骨は元々そんなに硬くないうえ、酢のおかげでさらにやわらかくなってもいるし、ぼくは抜けないときはそのままにしてしまう。
皮をはいだら、ペーパータオルとラップに包み、冷蔵庫で半日~1日おく。
こうすることで、酢がなじんでうまくなる。
さていよいよ、寝かせたしめサバを切るわけだが、その際、あいだに飾り包丁を入れるようにする。
これは、飾りの意味だけでなく、「骨切り」の意味もあるそうだ。
しめサバは、そのままでも味があるし、わさび醤油ももちろんいいが、京都でよく見かけるのは、おろした大根とショウガ、それにポン酢醤油で食べるやり方。
これはやさしい味になって、おすすめだ。
3時間だと、中は赤く、外はほんのり白いという、やや浅めの加減になる。
旬のサバは、脂が乗って、最高にうまいのである。
あとは、サバのあらを使った吸物の、にゅうめん。
「船場汁」とよばれる食べ方で、魚屋でさばいてもらった場合は、あらもぜひ持ち帰るといい。
湯通ししたあらを、だし昆布といっしょにアクを取りながら、15分ほど煮出す。
これに酒とうすくち醤油、塩で吸物の味をつけ、大根を煮るという話である。
湯通ししたらきちんと水洗いして血の塊などを落とし、さらにアクをしっかり取れば、「これがサバか」というような味になる。
だし殻昆布と大根の皮の卵炒め。
最近にわかに、廃物をその場で別の料理にする楽しみをおぼえたのである。
だし殻昆布と大根の皮は細く切り、ゴマ油で炒めたら、酒とみりん、砂糖とうすくち醤油で味をつけ、溶き卵をくわえて大きめにまとめる。
青ねぎと七味をふって食べたが、これが意外に、なかなかイケる。
酒は日本酒。
前の晩飲み過ぎてしまったから、昨日は少し控えめにした。
「ぼくはおっさんといるのが幸せだよ。」
ほんとうかい?うれしいよ。
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